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プロ野球20世紀の男たち

田淵幸一「虎のプリンス、獅子のキング」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

阪神では王の牙城を崩して本塁打王に



「タイガースには感謝している。いろいろあったけどね」

 こう振り返るのは、田淵幸一だ。確かに、いろいろあった。法大で通算22本塁打を放ち、立大の長嶋茂雄(のち巨人)が放った通算8本塁打を大幅に塗り替える東京六大学リーグ新記録を更新、少年時代からファンだった巨人への入団を希望していたが、ドラフト1位で阪神に強行指名され、1969年に入団。1年目から正捕手となり、22本塁打を放って新人王。「日本の捕手像を変える男」とも言われた。だが、翌70年には頭部に死球を受けて死線をさまよった。その翌71年には腎臓炎。阪神を去ったのも突然のトレード通告で、緊急の記者会見を午前3時に開いて、

「犠牲になるのは俺で最後にしてほしい」

 と涙を流した。ただ、もちろん悪いことばかりではなかった。死球禍からは太りやすい体質に変わってしまったが、プロ入り当初はガリガリに痩せていて、“キリン”“もやし”などと呼ばれることも。ただ、2歳の年下ながら2年前にプロ入りしていた“先輩”の江夏豊には“ブチ”と呼び捨てにされ、怒鳴りつけられることもあった。だが、持ち前の大らかさで、まったく気にせず。それどころか、

「江夏の速球を無造作に捕っていたら、『それでは審判は(ストライクを)取ってくれん、流すな!』と言われた。そこから、しっかりした捕球のために鉄アレイで左腕を鍛えたことがバッティングにも生きたと思う」

 江夏とのバッテリーは“黄金バッテリー”と言われ、2人の背番号を足して“50番コンビ”と呼ばれたこともあった。腎臓炎から復活すると、足を上げるフォームに挑戦。

「王(貞治。巨人)さんの真似をしてみたら、うまく体重移動ができて、やっぱり飛んだ」

 72年に34本塁打、73年は巨人戦での16本塁打を含む37本塁打、74年には自己最多の45本塁打を放つなど、徐々に本塁打を増やしていく。そして、75年には43本塁打。セ・リーグの本塁打王は長く王の独壇場だったが、その連続タイトルを13年でストップさせた。

 内股ぎみの「おかまちゃんスタイル」(田淵)の一本足から鋭くスイング。本塁打は滞空時間が長く、美しい弧を描くことから“ホームラン・アーチスト”とも呼ばれた。典型的なプルヒッターだったが、これは本拠地の甲子園球場では、いわゆる“浜風”が左方向への打球に勢いを与えるからでもある。

 そして、78年オフに阪神を放出されたが、これは新球団の西武で堤義明オーナーが「全国区の人気選手を獲れ!」と厳命したため。こうして、かつての“虎のプリンス”は、“獅子のキング”として再生していく。

西武で初めて経験した優勝、日本一


西武・田淵幸一


 西武2年目の80年には自身をモデルにしたギャグ漫画『がんばれ!! タブチくん!!』が大ヒットし、少年たちを中心に人気も再燃。本拠地は広い西武球場だったが、43本塁打を放って完全復活を遂げる。広岡達朗監督が就任した82年には、広岡監督から阪神の晩年と同様に「守れない、走れない」と批判されたが、そこから前期優勝、江夏のいる日本ハムとのプレーオフも制して初めて優勝を経験して、その勢いのまま日本シリーズで中日を下して日本一に。当初は確執もあった広岡監督に心酔するようになっていく。

 翌83年は前半戦から絶好調。5月は13本塁打で月間MVP、6月にも12本塁打を放って、打点も63まで積み上げる。打撃2冠どころか、7月10日に29号を放ったときには、王が持つ当時のプロ野球記録55本塁打の更新も射程圏に入っていた。だが、13日に死球を受けて骨折し、長期離脱。シーズン終盤には復帰して、巨人との日本シリーズでは第1戦(西武)で連続日本一の起爆剤となる本塁打を放ったが、骨折した右手が本調子に戻ることはなかった。

 その翌84年オフに引退。西武では指名打者が多かったが、最後の公式戦では5年ぶりにマスクをかぶり、捕手として有終の美を飾った。

写真=BBM
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