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プロ野球20世紀の男たち

川上哲治「“打撃の神様”が『ボールが止まって見える』まで」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「もう1人の川上哲治が……」



 プロ野球の公式戦よりも長い歴史を誇る巨人だったが、戦後の初優勝は1949年。そのオフは激動だった。21世紀には球界再編騒動もあったが、それ以上の激動だっただろう。翌50年の開幕に向けて、1リーグ制から2リーグ制へと移行。その混乱とは別に、巨人では三原修監督から水原茂監督へと体制が変わった。この経緯については、のちの機会に触れる。このとき、「優勝した監督を代えるのは、おかしい」と三原を擁護したのが、四番打者の川上哲治だった。特に“三原派”というわけではなかったが、このことで水原監督との関係が冷え込み、

「えらいスランプに陥ったんですよ。なかなか打てない上に、私は守備がヘタ、足も遅い。水原さんも『しっかりせいよ』と叱る。私のほうも、つい反抗的になる……」

 悪循環が生まれ、どんどん野球に集中できなくなっていった。そこから脱却するべく、50年の夏、二軍の選手に頼み込んで、多摩川のグラウンドで、とことん打ち込みをした。

「ずっと打ち続けるうちに球が止まって見える境地になったんです。打つべきタイミングがピタッとハマったとき、動いているはずの球が止まって見えた。仏教で同行二人という言葉がありますが、欲得のある生身の人間と、欲得の世界を超えた人間。その、もう1人の川上哲治が、球が止まって見える感覚をつかんだわけです」

 打撃投手の「もう300球も投げています。勘弁してください」という声で、ようやく我に返ったという。その異名は“打撃の神様”。プロ野球で初めて通算2000安打に到達した好打者だが、38年に巨人へ入団したときは投手だった。熊本工でバッテリーを組んだ吉原正喜と一緒に入団し、巨人でもバッテリーを組んだが、闘志あふれるプレーで司令塔に定着した吉原の一方で、早々に挫折する。当時は春季と秋季の2シーズン制。その合間の北海道への遠征で、

「青函連絡船の中で、藤本(藤本定義)監督から『ファーストミットを用意しておけ』と言われたときは、本当にうれしかったですね」

 41年までは一応“二刀流”を続けているが、39年に首位打者、打点王の打撃2冠。圧巻のスピードを誇る打球は“弾丸ライナー”と評され、打者として一気に開花した。

 42年オフに応召。戦後は熊本へ帰郷し、農業に打ち込む。両親や弟、妹の8人を食べさせていかなければならないこともあったが、凝り性を発揮して、農業にハマった。巨人からの復帰の誘いも、何度も断ったという。

「ホームランは自分に合わない」


 それでも46年シーズン途中に復帰。時代とともに野球も変わっていた。観客が待ち望んでいたのは唯一、ホームラン。それに応えるべく、バットに赤いペンキを吹きつけ、本塁打を狙う打撃にシフトした。いわゆる“赤バット”だ。

「ペンキが粗悪で、ボールに色がつくと禁止になって1年しか使っていないんですが、みんな、よく覚えているようですね」

 48年には本塁打王にも輝いたが、

「ホームランには自分に合わないと思った」

 と、元のアベレージ狙いに。復帰してから初めての首位打者に輝いた51年の三振は、わずか6。規定打席(当時は規定打数)に到達した打者としては最少の数字だ。以降はチームメートの与那嶺要と競い合って、1年おきに首位打者を獲得。だが、57年に腰を痛めたことで、

「問題は体力です。球をとらえる技術は身についても、とらえたと思った打球が弱い。これでは巨人の四番としての給料はもらえない」

 と、翌58年オフに現役を引退した。

 巨人の監督に就任したのが61年。それまでは個人の力で勝負するのが主流だったが、全員が総力を上げて勝つ野球を目指した。74年に長嶋茂雄へ監督の座を禅譲するまで、優勝11回、そして日本一も11回を数える。王貞治と長嶋の“ON砲”が主力だったことは確かだが、

「いろいろな人がいて、その総合力ですね。技術を基盤にした全員の強固な心のつながりで、ひとつの目的に向かっていく野球を、とことん追求したのが、V9でした」

 その「いろいろな人」も今後、紹介していく。

写真=BBM
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