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プロ野球20世紀の男たち

若松勉「小さな体躯で打ちまくった“小さな大打者”の打撃術」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

小柄な師弟の二人三脚



 スワローズひと筋を貫いた選手では最強の好打者ではないだろうか。北海道の大地が育んだ“小さな大打者”若松勉。身長は公称では168センチだが、実際は166センチしかなかったという。電電北海道でプレーしていた70年の秋にヤクルトからドラフト3位で指名されたが、北海道の出身で成功した野手がいなかったことに加え、スキーで鍛えた足腰には自信があったとはいえ、その小さな体躯から、プロの世界へ飛び込むことに迷い、スカウトにも会わずにいた。

 その背中を押したのが中西太ヘッドコーチだ。人づてに聞こえてきた「プロのバッティングは体の大きさじゃない」という言葉は、同様に小さな体でライナー性の本塁打を量産した中西コーチのものだけに、説得力があった。

 そして入団。中西コーチとの二人三脚で打撃フォームを作り上げていく。まず求められたのは、左翼を越える強い打球。それを左打者が打つには、しっかり呼び込んで打つこと、そして強靭な下半身が不可欠だ。砂を入れたチューブを腰に巻いて素振りやダッシュ、相撲の四股踏みなども取り入れて、下半身を徹底的に強化した。

 トスバッティングでも、わざとリズムを変えてトスされたり、左投手のカーブ対策として右肩の後ろから上げられたりと、トレーニング機器がそろっていない当時にあって、中西コーチのアイデア満載。「打つときは女性の尻をなでるように」という中西コーチの独特な表現も「バットは常に内側から振る」と正しく(?)解釈し、自身の打撃フォームを確立させていく。やや窮屈で苦しいフォームにも見えたが、練習が終わってからも中西コーチの部屋でバットを振り続け、自分のものにしていった。

 1年目の71年から外野のレギュラーに定着。オフには、同じ左打者で、あこがれの存在でもあった巨人王貞治と同じ背番号1を希望し、翌72年には打率.329で首位打者に。ただ、ライバルたちの不振や、終盤は三原脩監督が左投手のときには欠場させたこともあって、

「気づいたら獲れたという感じです。別に自信にもならなかったですね」

 その後も毎年のように首位打者を争ったが、ようやく自信を手にしたのはプロ7年目、77年のことだった。巨人の張本勲とのデッドヒートは、最終的には1分ほどの差をつけたが、一時は忽のケタで表現されるほどの僅差の争い。打率.358で2度目の首位打者に輝き、

「あのときは1度目と違い、背中の痛みを押して最後まで試合に出てのタイトル。しかも、尊敬する張本さんと競り勝ったことで、プロでやっていけるという大きな自信をつかみましたね」

軸足の親指から内転筋へ


 翌78年にはヤクルト初優勝、日本一の立役者となってMVPに。広岡達朗監督に左翼から中堅へとコンバートされたシーズンだったが、

「広岡さんは、肩が強くなくてもダッシュがよく、カットマンまで正確に投げたらランナーを止められる、と言っていた。イチからスローイングも教わりましたね」

 現役の終盤は代打の切り札に回ったものの、最後まで安定感は健在。勝負強さも持ち味だったが、小さな体躯ながらパンチ力も秘めていた。

「ヘッドの重さを感じられるように」

 とバットのグリップを胸の前まで下げ、両足の親指と内転筋を意識することで打球にパワーを加える。特に軸足の親指を強く意識して、地面を蹴るように力を加え、その反発力が内転筋を通して強い打球を呼んだ。体を泳がされるのを嫌い、変化球を待つのが基本。速球に差し込まれたときにはスイングスピードでカバーする。2度目の首位打者となった77年には自己最多に並ぶ20本塁打を放ちながら、わずか14三振と、バットコントロールも光った。

 21世紀に背番号1を継承し、メジャーでも活躍した青木宣親が現時点では上回っているが、通算打率のボーダーラインとなる通算4000打数を超えた選手のうち、日本人選手の最終打率では、その通算打率.319は歴代トップだ。ちなみに、最終打率ではロッテのリーが残した打率.320が僅差でトップだが、その通算打数では、約2000打数ほどの開きがある。

写真=BBM

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