昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 短距離界のスター選手
今回は『1968年12月2日号』の第2弾。定価は60円。
前回は68年11月12日のドラフト会議を1位指名中心に書いた。
会議はその後も進み、徐々に名前が呼ばれてもなんのリアクションもなくなっていく。
休憩をはさみ、東京の9巡目、102番目だった。
「東京、
飯島秀雄、外野手25歳、茨城県庁」
このアナウンスに久々に会場がざわめいた。
ただ、それは驚きの声だけでない。冷笑を浮かべる関係者もいた。
飯島は陸上の短距離ランナーとして、10秒1の100メートル日本記録を持っていたスター選手。ON級とまでは言わないが、かなりの知名度があった。野球は中学時代に少しやっただけだという。
実は、すでに10日の朝刊でスクープされて大騒ぎになったので、この日は「へえ、永田さん、ほんとに指名したのか」という反応だったようだ。
最初の問題は、陸連がOKするかどうかと言われたが、翌日、新聞記者に直撃した大物政治家でもある河野謙三陸連会長は、
「永田(永田雅一)さん(東京オーナー)には飯島と話し合ってみてからと言っている。会長の立場としては反対だ」
と話していた。
もともとは永田が飯島を見て「この素晴らしい足の選手がプロ野球選手になったら、どうなるんだろう」と思ったのがきっかけだったという。
少し話が前後するが、その前に永田から「来季はコーチを一新する」という言葉があり、これに対し、「自分はどうなるか、ちゃんと説明してほしい」と憤った東京・
大沢啓二二軍コーチ(のち親分)が、大映本社の永田オーナーに直談判するという一件があった。
永田オーナーが、この大沢の型破りの行動に感心し、その場で、これからのチームについていろいろ話したらしいが、その中で飯島の名前も出た。
すると、大沢が「飯島なら私が話をつけましょう」と言ったという。
聞けば、飯島が東京で下宿しているスポーツ店の店主が大沢の義理の弟だという。
その後、11月3日に飯島は永田との話し合いをしたが、すでに心は決めていたのだろう。その夜、大沢に会い、スライディングのコツなど、野球についての質問をぶつけている。
河野会長も最終的にはOKを出した。
飯島はプロ入りの理由について、次のように語った。
「経済的な理由がないといえば、嘘になるでしょう。プロなら技術を売るというのは当然でしょうし、大金を得るチャンスもあるんじゃないですか。いくらアマチュアで名声を得たからと言って、名声だけでは食べてはいけません。陸連で一生面倒見てもらえるわけでもありませんしね」
ビッグマウスで異色の陸上選手だったらしい。
ちなみに亜大のホームランバッターで、今回東映が1位指名。入団後は守備の人となった
大橋穣だが、かつて
張本勲氏が、
「本当ならホームラン30本くらいは打てた選手。なのに指導者が二番打者の枠にはめ、打撃を小さくしてしまった」
と言っていたことがある。
アマ時代いくら長打力で鳴らしても、線が細かったり、身長が低いと、プロでは、どうしても右打ちをしろとか、バントをしろと言われる。
ただ、ならば、いったい身長が何センチなら大振りしても球が飛び、何センチなら飛ばないのか。
今なら
オリックスの
吉田正尚につなぎの打撃を求めるようなものだが、せっかくのトラックマンだ。分析してほしいものである。
(追加文。このくだり担当の思い込みからでした、大橋選手は176センチだから決して低くありません。申し訳ありません。反省も込め、削除せず、掲載しておきます)
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM