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編集部員コラム「Every Day BASEBALL」

杉下茂が語った元阪神・バッキーの真実

 

日本時間の9月15日、1960年代に阪神のエースとして活躍したジーン・バッキー氏が出血性脳卒中のため亡くなった。享年82歳。日本球界で通算100勝を挙げた大投手で、64年の優勝に大きく貢献した。前年、8勝しか挙げられなかったクビ寸前から29勝をマークして沢村賞の栄誉にも輝いた。大躍進を果たした裏にあったのは、この年、投手コーチに就任した杉下茂の力だった。2015年に発行された『阪神タイガース80年史Extra 外国人列伝』で同氏にバッキーとの二人三脚の日々を語ってもらったが、ここに再録する。

イチからやり直して投球フォームを作った


キレのあるストレート、スライダーが武器だった


 トラのユニフォームを着ることができたのは、「お慈悲」だった。3Aハワイ・アイランダースに所属していたジーン・バッキーだったが解雇寸前となり、1962年7月に、ドリス夫人と着の身着のまま入団テストを受けに来日。日本で一旗あげないと帰れない――。その気迫を感じたからか、藤本定義監督は「ま、磨けば光るかもしれんな」とつぶやき、阪神入団を許可した。

 スピードはあったがノーコン。結局、1年目は0勝3敗、2年目は8勝5敗と平凡な数字に終わった。親しみやすい性格は誰からも愛され、甲子園球場の裏の長屋に住み、日本になじんでいたが契約は風前の灯。そんなとき、投手コーチに就任したのが杉下茂だった。

「私がコーチに就任した1963年オフ、“世紀のトレード”があったんですよ。小山正明が大毎へ、そして阪神には山内一弘が来た。球団フロントは阪神を強打のチームに変貌させようと考えたわけです。しかし、困ったのは投手コーチである私。小山は同年14勝でしたが、優勝した62年は27勝を挙げていました。勝てる先発がいなくなることは投手陣にとってダメージが大きい。さらに、球団フロントは打力強化を図って、バッキーをクビにして代わりに外国人外野手と契約しようとしていました。

 63年8勝とはいえ、貴重な先発右腕。だから、私は当時の戸沢一隆球団社長に『バッキーを残してください』と懇願したんです。そしたら、了承してくれて。ただ、バッキーには次のように言ったみたいなんです。『おまえは本来はクビだ。でも、杉下投手コーチがなんとかして残してくれと言ってきた。だから、杉下投手コーチの言うことは絶対に聞け。そうすれば契約してやる』と。バッキーは『分かりました』と答えたそうです。

 翌春、キャンプに入って、私がバッキーを呼ぶと飛んできて、『イエッサー』と直立不動ですよ。なんとしても、日本で成功したい気持ちにあふれっていますから。関西弁がペラペラで意志疎通は十分に図れます。阪急にいたバルボンがいたでしょ。のちに通訳もやった。あれくらい話せましたからね。まあ、それはともかく、とにかく厳しく指導しましたよ。まず、投球フォームがバラバラでしたから。腕と足がまったく連動していないから、力が分散してしまう。理にかなっていなく、それはひどいもんでしたよ。

 投球フォームはイチからやり直し。基本から教え込んでいきました。とにかく、きちんと下半身を使え、と。土台をしっかりしないとダメだから。ボールをほうるときに右足を前に出さないようにすることに心血を注ぎましたね。そのために僕がしゃがんで、バッキーの左ヒザの後ろに腕を入れて、ほうらせる。すると、右足が前に出てくるから僕の背中にヒザがガンガン当たる。もう、アザがたくさんできて。でも、それくらいしてやらないと修正できない。体を張らないと、言葉だけでは伝わりませんから。

 下半身主導のフォームにするために、土台強化にも力を入れましたね。これはバッキーだけでなく、トレーニングコーチが選手に鉛が入った靴を履かせて練習をさせていた。でも、これは一長一短があると思うんです。あまり重い靴を履いていると、軽い靴にしたとき足が空回りしてしまう。ただ、外国人は下半身が弱いですから。これはバッキーにとって、いいトレーニングになったと思います。

 投球フォームでは『左肩を開くな』ということもしつこく言いましたね。胸のマークを最後までバッターに見せちゃいかん、と。見せた瞬間には腕を振り切っていないといけない。そうするためには下半身がしっかりしていないといけません。あとは腕の振りに関して。とにかく腕を伸ばして、ゆっくり、大きく使え、と。バッキーは腕が長かったから、それを最大限に生かさないと意味がありません。バッキーは必死だったし、のみ込みが早かったですよ。私と二人三脚で進んでいくうちに、力強いボールもほうれるようになって、『よし、やってやろう』という気持ちになっていったんじゃないかな」。

村山との間にあった熱いライバル意識


関西弁も達者で、チームにも完全にとけ込んでいた(左から杉下コーチ、村山実吉田義男、バッキー、山内一弘


 長い手足を生かした投げ方は「スネーク投法」と呼ばれたが、投球フォームが固まり、そのボールの勢いはすさまじいものと変貌していった。当時の阪神のエース・村山実と双璧のストレート、変化球のキレ。対戦したセ・リーグのバッターは一様に「あれが、あのバッキーなのか!」と驚嘆した。

 結局、64年シーズン、バッキーは46試合に登板して29勝9敗、防御率1・89という好成績をマーク。最多勝と最優秀防御率の2冠に輝き、外国人選手としては初の澤村賞も獲得して、優勝に貢献した。

「下半身が安定したから、それに伴ってコントロールも向上しました。ナックルも有名だった? いやいや、それは私がコーチに就任する前じゃなかったかな。私と一緒にやっているときは投げていないですよ。私が教えたのはスライダー。それもいまのようにおじぎする変化ではなく、グーンと伸びてくる本物のスライダーですよ。ストレートの握りから少し横にずらす。そこから抜いたり、ひねったりせずにストレートと同じようにほうる。するとストレートと同じ回転で打者に向かっていき、横にずらして握っているぶん、力が半分にかかるから、それだけグーンと伸びながら横にキュッと曲がる。槙原寛己も当初、似たようなスライダーを投げていたかな。

 とにかくそれを右打者の内角外からストライクゾーンに入れたり、もちろん外角からボールになるゾーンへ投げ込んだり。生半可な(笑)シュートもあったけど、基本的にその2球種だけで打者を牛耳りましたよね。

 そういえばこの年、藤本監督の意向もあって、専任捕手をつくったんですよね。福塚勝哉辻佳紀戸梶正夫と同レベルの捕手が3人いて、まず村山に『誰がいい?』と。すると村山は強肩の福塚を選びました。そして、バッキーは打撃に優れている戸梶。もう、ブルペンでの投球からすべてコンビを組ませて。コンビネーションが抜群になり、当然本番の試合でもそれは大きくプラスとなりましたよね。

 でも、優勝したシーズンはこの2人がよく投げてくれましたよ。2人で92試合に投げて、51勝27敗ですから。勝っても、負けても、最後まで。ライバル意識もお互いにありましたよ。だいたい、村山が3連戦の初戦やダブルヘッダーの第1試合など最初に投げるんですけど、とにかくバッキーより先に勝つんだという気概にあふれ、バッキーはバッキーで、村山さんが勝って、自分が負けるのは嫌だ、と。チーム内でのエース争いが、チームを優勝へと押し上げていきましたね。

 マウンド上では闘争心にあふれていました。バッキーは全球全力投球なんですよ。最初からなんとしても相手を抑え込むんだという気持ちが強いから手を抜くことがない。でも、普段は本当にひょうきんなヤツで。そういえば川崎球場の大洋戦でピンチになったときにマウンドに行ったんです。そして、「バッキーどうした? オレ、東京に家があるから早く帰りたいんだよ」って言ったら、ニヤッとして「コーチ、あなたも好きねえ(笑)」とこうきたよ。すると、あっさりとピンチを断って、ニヤニヤしながらベンチに戻ってきた。65年に巨人戦でノーヒットノーランを達成するなど(6月28日甲子園)、いいピッチングをたくさんしてくれたけど、なぜかこのことが心に残っていますね。

 バッキーは私が見てきた外国人投手の中でも最高の存在ですよね。彼が絶好調のときは右に出るヤツは誰もいない。いるとしたら、スタンカ(南海)くらいか。ほかの外国人投手は推して知るべし。なかなかあのレベルの外国人投手は出てきませんよね」

文=小林光男 写真=BBM
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