プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 大騒動となった伊良部のメジャー挑戦
1994年オフ、
野茂英雄が近鉄を退団、退路を断ってドジャースへ入団し、さらなる活躍を続けたことは紹介した。ただ、日本人メジャー・リーガーの第1号は野茂ではない。南海から野球留学で渡米していた64年9月にデビューした左腕の
村上雅則が第1号で、日本人の初勝利も村上。ただ、翌65年には南海との二重契約問題が勃発、1年間プレーして帰国することになるなど、順調だったとは言い難い。近年こそ減ったが、90年代のメジャー挑戦は、トラブルと、それを超克していく歴史でもあった。
大騒動に発展したのが、96年オフにメジャーを目指した伊良部秀輝だ。野茂がドジャースで大活躍をする中で、「次は誰か」という話題になると、必ず名前が挙がった右腕。そして本人も、もともとメジャー志望が強かった。沖縄県に生まれ、アメリカ人の父親が物心つく前に離婚、帰国して音信不通となっていたことも、その背景にはあったのだろう。
尽誠学園高からドラフト1位で88年に
ロッテ入団。しばらく伸び悩んでいたが、93年には当時の最速となる158キロを記録。
西武の
清原和博とは力と力の真っ向勝負を繰り広げた。翌94年には15勝で最多勝に。続く95年には防御率2.53で最優秀防御率に、2年連続リーグ最多奪三振。そして96年にも防御率2.40で2年連続の最優秀防御率に輝いたが、シーズン中から
廣岡達朗GMと激しく衝突、これで球団にメジャー移籍を強く要望するようになった。そしてオフ、球団代表補佐の石井良一は「制度の問題もある。もう1年、待ってもらえないか」と言ったが、
「僕はアメリカに行って父親を探したい」
という伊良部の言葉に、説得は無理だと感じたという。剛腕の印象もあるが、実際は誰よりも純粋かつ繊細、そして理論派。先輩の
小宮山悟との野球談議は、ともに登板がない日は尽きることがなかったという。
翌97年1月、ロッテはパドレスに独占交渉権を与えたが、伊良部は代理人の団野村を通じて、ヤンキースへの入団を希望。結局、三角トレードの形で、パドレスを経由してヤンキースへ。メジャー初登板初勝利を挙げると、2年目の97年には先発ローテーションの一角を確保して13勝を挙げた。
伊良部を巡る大騒動の裏で、順調にエンゼルスへ移籍したのが
オリックスの
長谷川滋利。立命大からドラフト1位で入団、1年目から12勝を挙げた右腕だが、野茂よりも早く渡米している可能性もあった。2度目の12勝となった93年オフ、将来的なメジャー移籍の希望を球団にぶつけると、球団代表の井箟重慶が話を進め、ロッキーズからオファーが届いた。ただ、条件が悪すぎて立ち消えとなり、野茂のドジャース移籍が決まったときにはショックだったという。そして金銭トレードで97年にエンゼルスへ。セットアッパーとして活躍した。
吉井と木田が次々にFAでメジャーへ
97年オフにメッツへ移籍したのが
吉井理人だ。近鉄が最終戦まで優勝を争った88年にクローザーとして頭角を現し、90年代に入ると野茂とチームメートに。95年に移籍した
ヤクルトではスターターとして3年連続2ケタ勝利。97年オフに契約がまとまらずにFA宣言、
阪神ほか5球団からオファーが来たが、迷った末に渡米した。2年目の99年には12勝を挙げ、プレーオフにも2試合で先発している。なお、メッツの先輩では、かつての村上と同様、野球留学から97年にデビューを果たした
巨人の
柏田貴史がいる。村上と同じ左腕でもあった。
吉井に続いてFAでメジャー移籍を果たしたのが右腕の
木田優夫だ。日大明誠高からドラフト1位で87年に巨人へ入団し、90年にリーグ最多182奪三振。オリックス1年目の98年オフにタイガースへ移籍したが、2000年シーズン途中に優勝を争うオリックスへ緊急復帰。21世紀に入って、あらためて渡米した。
木田と同じ98年オフ、わずか1勝ながらメジャーを目指した横浜の
大家友和が翌99年にレッドソックスでデビュー。その横浜からマリナーズへFA移籍し、2000年にデビューしたのが“大魔神”
佐々木主浩だった。
写真=BBM