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プロ野球20世紀の男たち

長谷川良平「カープ創設期“小さな大エース”の“相手の心理を利用した生活の知恵”とは?」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

原爆の爪痕が色濃く残る広島で



「デカい人は損しとる。僕は、この体ですごく得をした。あの小さい体でよくやった、と言ってもらえますからね」

 身長167センチ。あまりにも弱く、連盟から解散を迫られたこともあった創設期の広島を牽引した“小さな大エース”長谷川良平だ。

 愛知県の出身。広島市役所に勤めていた叔父の勧めもあり、19歳のときに広島の入団テストを受けるため夜行列車に乗り、広島駅へ着いた早朝、終戦から4年あまりが過ぎていながら、今なお原爆による爪痕が色濃く残る街を見て、愕然としたという。

 そんな広島の地に、1社で球団を支えるほどの大企業はなかったが、「なんとしても我らの球団を」という関係者の熱意もあり、地元の政財界、そして市民と県民が一体となってバックアップする斬新な市民球団として誕生したのがカープだった。市民も自分たちの生活で精いっぱいだったはずだが、球場の前に樽を置いての“樽募金”など、市民からの募金も当時の重要な収入源。カープは焦土からの復興、そして希望の象徴だったことは想像に難くない。そんな新球団の入団テストで打者のバットを折りまくって、すぐに入団が決まった。

 迎えた1950年。その1年目は二軍スタートながら、すぐに一軍へ。最終的には15勝もリーグ最多の27敗。翌51年は勝ち越して17勝14敗、チームが32勝だったから、その存在は大きかった。だが、そのオフ、当時は12月15日までに選手へ統一契約書が届き、もし届かなければ自由契約、というシステムだったのだが、球団の事務処理にミスがあり、これが届かず。これを聞きつけた中日から声がかかる。

 中日は故郷の球団であり、あこがれのチームでもあった。資金難に苦しむ広島は他の球団より条件が悪く、これに疲れていたこともあって移籍へ心が動いたが、その翌52年、コミッショナー裁定もあって、開幕の直前に残留を決意。

「罵声を浴びせられるかと思っていましたが、開幕の前日に広島へ戻ると、たくさんのファンが駅に集まって、のぼりを立てて温かく迎えてくれた。あれを見て、もう俺は絶対カープから離れん、と思いました」

 この52年は調整の遅れで11勝に終わったが、広島は初めて最下位を脱出。翌53年には20勝を、チームも4位に浮上した。そして55年、自己最多の30勝を挙げて最多勝。チームは58勝だから、やはりチームの半数を超える勝ち星を1人で稼いだことになる。

広島市民球場には「違和感」


 小さい体で、打者を圧倒するような球威もなかった。しかも打線の援護はなく、バックの守備はボロボロ。そんな中で武器となったのは、変幻自在の投球フォームと“七色の変化球”だった。投げる前に独特の間があり、そこからオーバースロー、サイドスロー、アンダースローと投げ分けて打者を幻惑。ただ、どんな投げ方をしても制球力は卓越していた。多彩な変化球も、実はカーブとシュートの2種類のみ。それを緩急やフォームの変化で“七色”に見せて、

「相手の心理を利用した“生活の知恵”です」

 と表現する。特に、指先の細かい感覚で変化をコントロールできたシュートはウイニングショットとなり、あるシュートは右打者の懐に食い込んでバットを折り、またあるシュートは沈んでゴロの山を築いた。一方で、体が小さい分、体調管理を徹底。もともと嫌いなこともあるが、誘われても酒は飲まず、どんなときも右肩を冷やさないように気をつけ、遠征でも熟睡できるように自前の枕を持っていって、必ず雨戸を閉めて真っ暗にして眠ったという。ただ、57年に完成した本拠地の広島市民球場は苦手。

「ライト方向に風が吹き、左打者が有利になるんで、僕には違和感があった。完成が2、3年、遅れていたら200勝できたかもしれない」

 63年オフ、通算197勝で引退したが、

「力は落ちても自分のペース、自分の球質、球速に合わせたピッチングはある」

 と語っていた。58年からは急失速したが、巨人王貞治をして「打てそうで打てない不思議な投手」と言わしめている。

写真=BBM
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