プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 “エースのジョー”&“8時半の男”
巨人V9元年の1965年は、コーチを兼任していた“悲運のエース”
藤田元司、ルーキーイヤーの60年に29勝で最多勝、新人王に沢村賞にも輝いた
堀本律雄らのラストイヤーでもあった。藤田のエースナンバー18は67年に2年目の
堀内恒夫が継承、ともに美しい投球フォームを誇った本格派右腕だったが、もちろん、1人のエースだけでV9という空前絶後の黄金時代が築けるはずもない。本格派エースを囲む投手陣も充実していて、そして個性的だった。
軽々しく個性と表現してしまうと安直のようだが、本格派が中心にいたことで、なおさら個性は際立って見えた。65年のエースは城之内邦雄だ。62年に新人ながら開幕投手に抜擢されて24勝を挙げ、新人王に選ばれた右腕。のちに近鉄の
野茂英雄が“トルネード投法”でメジャーをも席捲するが、さかのぼること30年ほど前、“元祖トルネード投法”というべき荒々しいフォームで、剛速球とエゲツない
シュートを投げ込み、俳優の宍戸譲が主演するアクション映画にちなんだ“エースのジョー”と呼ばれた。
プロのデビューこそ鮮烈だったが、それまでは回り道ばかりの野球人生。中学時代は控え投手で、佐原一高ではバレー部へ。すぐ野球部へ入り直したが、本格的に打ち込んだわけではなかった。だが、3年生の夏にはエースで四番打者となり、社会人の日本ビールで徹底した走り込みを続けたことで完全に覚醒。65年には4連続完封、10連勝を含む21勝を挙げた。
その65年、2試合を除いて、すべてリリーフで20勝を挙げたのが4年目の宮田征典だ。ナイターでの登板は決まって午後8時半ごろだったことから“8時半の男”と呼ばれた右腕。ただ、そのマウンドは常に死と隣り合わせだった。これは比喩ではない。神経性心臓脅迫症の持病で、わずかなグラブの動きで
川上哲治監督に交代を要求することもあった。それでも、何事もなかったかのようにベンチへ歩き、すぐに医務室へ直行、氷嚢で心臓を冷やしたという。
ただ、当時としては珍しいリリーフ専門の投手になったのは63年からで、心臓疾患を知った川上監督の指示だったが、翌64年に右肩痛。そこから体を鍛え直し、正しいフォームも徹底的に研究したことが4年目の覚醒につながった。そしてリーグ最多の69試合に登板して規定投球回にも到達、防御率2.07はリーグ4位。20勝5敗の記録に、現行のルールを適用すれば22セーブも加わる。
打者の心理を見抜く観察眼と卓越した制球力に支えられ、“ミヤボール”と呼ばれた沈む球がウイニングショット。MVPに選ばれたのは主砲の
王貞治だったが、川上監督は投票した記者たちに「なんとか宮田に(MVPを)あげられんかったのか」と言ったという。宮田は南海との日本シリーズで胴上げ投手となったが、翌66年に肝機能障害も患い、69年オフに8年という短い現役生活を終えた。
胴上げ投手8度の左腕エース
68年にはノーヒットノーランも記録した城之内だったが、翌69年は4勝に終わり、1年目から続いていた2ケタ勝利が途切れる。その69年に22勝で最多勝、沢村賞に輝いたのが高橋一三だ。
フォームの豪快さでは城之内に負けず、顔が一度、空をむいてから、高い位置から地面で指をこするくらいまで投げ下ろした左腕。V9元年の65年に入団したが伸び悩み、のちに代名詞となるスクリューボールに加え、フォークも完璧に操ることができるようになったことが大ブレークを呼んだ。ライバルの
阪神に強く、その69年は無傷の7連勝。リーグ優勝、日本シリーズともに胴上げ投手となった。胴上げ投手は通算8度を数え、
「日本記録じゃないですかね(笑)」(高橋)
なお、勝利投手となった66年のリーグ優勝では胴上げ投手を
金田正一に譲っている。
V9が途切れた74年に、その金田が率いる
ロッテで現役に復帰したのが城之内だ。「若い投手の刺激になってほしい」と言われての復帰で、1年で引退。76年に
日本ハムへ移籍した高橋は81年に14勝を挙げて日本ハム初優勝に貢献し、83年オフにユニフォームを脱いだ。
写真=BBM