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プロ野球回顧録

偉大なる終止符! 金田正一氏が記した「400勝」という足跡

 

プロ野球記録である14年連続20勝と“太く長く”勝ち続けた金田正一氏は、巨人に移籍してからも通算勝利数を伸ばしていった。そして1969年、シーズン最終登板で400の大台に乗せたところで引退となった。今後も、近付くことすらままならない、まさに不滅の打記録だ。

通算勝利1位の時点で29歳。前記録保持者は400勝に太鼓判


69年10月10日、リリーフ登板で大記録を達成。試合後には記念のボールに「400勝」と書き込んだ


 金田正一が通算勝利数で日本の頂点に立ったのは、1963年6月30日のことだった。広島戦ダブルヘッダーの第1試合。5回を終えて国鉄が6対4とリードしているところから、3日前の中日戦で完投負けしていた金田が登板。残る4イニングを3安打無失点、7奪三振と抑え込んで白星をかっさらった。これで通算311勝とし、別所毅彦(巨人ほか)が持つ最多勝利記録を抜き去ったのだった。

「名古屋での負けっぷりがひどかった(4対5)ので、今、有頂天にはまだなれないかな。でもよかったわ。ホッとした。肩の荷が下りたような感じやねん」

 最後の打者となった興津立雄を見逃し三振に打ち取った瞬間、マウンドの金田の顔はこわばっているようだった。静かにマウンドを降りる金田より、飛び上がるようにして金田を取り囲んだ根来広光土屋正孝徳武定之ら野手のほうが喜びいっぱいといった様子だった。

 それでも感慨は徐々に胸に込み上げたようで、風呂に入ったころは、その顔はもう新記録達成の喜びにあふれて、久しぶりに屈託のない笑顔を見せていた。大勢の報道陣に囲まれて喜びの声を求められても、自宅を訪ねた小誌『週刊ベースボール』の取材に応じて「311勝」と書かれた記念のボールを掲げた際にも笑顔。つかの間の達成感に浸った。

 この時点で29歳。前記録保持者の別所は、金田が300勝を達成したときにこう語っている。

「私は30歳を過ぎてから180勝したんです。それと比べたら、金田君は悠々100勝はできますよ。ということは、400勝は可能だということです。三振奪取4000にしても簡単でしょう。金田君という投手は、それほど力のある投手です」

 結局、この63年は、歩みを緩めることなく30勝を挙げて、3度目の最多勝を手にした。さらに翌年も27勝。通算353勝、400勝まで残り47勝として金田はB級10年選手制度を行使して巨人に移った。

 誰もが舌を巻く練習量、登板に向けての摂生、ピッチングをすべての中心に据えた生活。そうした徹底的な野球への取り組みを目の当たりにさせることで、巨人ナインにプラスの影響を与えることができるとの川上哲治監督の思惑が、金田獲得の狙いだったと言われている。加えて国鉄は、62年の産経新聞社とフジテレビによる経営参入に端を発する組織内の諸問題に揺れ続けており、金田が球団と決別する下地も整っていた。

 巨人の金田として始動すると、周りの選手たちは刮目せざるを得なくなった。前人未到の記録を数々打ち立ててきた元難敵が、目の前で自分をはるかに上回る量のランニングをこなす。これでは、手緩いことはできない。川上監督がもくろんだ“刺激”がもたらされ、巨人はこの年、2年ぶり7度目の日本一に輝く。そして、これが栄光のV9の端緒となるのだった。

巨人移籍後は大きくペースダウンも、最後の最後に大記録達成!


引退試合は70年4月2日、生まれ変わった古巣ヤクルトとのオープン戦で挙行。金田は栄光の背番号34のユニフォームに別れを告げた


 ところが、その年の金田は11勝に留まった。開幕前にノックで左手の指を骨折しながら、「高い金もらって、優勝するために獲ってもらったんだからねえ」(後年の当人談)と、責任感からどうにか間に合わせて開幕投手(4月10日、中日戦)を務め、勝ち投手となった。その無理がたたって6勝したところでヒジを痛め、夏場に戦線離脱。ペナントレースも佳境の9月に復帰して5連勝し、チームを首位に押し上げはしたものの、シーズン最後の5登板は勝ち星なしの3連敗となった。

 翌年もヒジはよくならず4勝。67年にようやく復活して16勝を挙げた。巨人入りしてからは国鉄時代と違い、そもそも登板数が半分近くになった。国鉄では「天皇」と呼ばれていたように、1人エースの金田は自分の意向で先発日を決め、試合の趨勢次第ではリリーフで出て行って勝ち星を拾うこともできた。しかし、巨人ではそうはいかない。そんな中でも、68年に11勝し、夢の舞台まであと5勝となった。

 69年もまた、思うに任せない苦しいシーズンとなったが、閉幕間際にようやくゴールテープ目前となった。10月10日、中日戦で城之内邦雄をリリーフした金田は9回まで丁寧なピッチングを続け、最後の打者、新人の島谷金二を二ゴロに仕留めて不滅の大記録が誕生した。川上監督はあと1イニングで勝利投手になれる城之内をマウンドから下ろし、金田を投入したのだ。当時の記事には、記録達成の瞬間、金田が一瞬呆然とし、やがて手を振り、ナインとの握手に応える様子が描写されている。

「うれしい……」

 インタビューに答えた金田は、ここで絶句したという。

「ホンマにうれしい。400勝できたのはナインのお陰。みんなの協力がなかったらできんかった。勝てるときはナンボでも勝てるもんやが、いったん勝てんとなったら余計に勝てん。1勝がどんなに苦しいもんかということが、不調になってからよう分かった」

 続く阪急との日本シリーズで、金田は先発、リリーフと2試合に投げて勝敗はつかず。それでも、5連続日本一を見届け、1週間後の11月30日に神宮球場室内練習場で引退を表明した。

「寂しさはない。すがすがしい気持ちで引退できる」

 目には涙が光っていた。

 後年、金田自身がテレビで語ったところによると、400勝の胴上げの際、長嶋茂雄が泣きながら「ご苦労様でした!」と言ってきたことで、首脳陣がこの金字塔を花道に引退させるつもりであることに気が付いていたのだという。それを当人が望んでいたかいなかったは別にして、金田が最後に付けた足跡には、未来永劫、誰も近付くことはできないだろう。

(『週刊ベースボール』1963年7月15日号、1969年10月27日号ほかより抜粋・再編集)

写真=BBM
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