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プロ野球20世紀の男たち

槙原寛己、斎藤雅樹&桑田真澄「巨人90年代の先発三本柱」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

“10.8”で実現した三本柱リレー


左から巨人・槙原、桑田、斎藤


 さかのぼること、ちょうど四半世紀。巨人の長嶋茂雄監督が「国民的行事」と表現した激戦があった。序盤から首位を独走していた巨人だったが、終盤から中日が猛追。ともに69勝60敗、まったく同じ勝率.535で最終戦を迎えたが、それが1994年10月8日、ナゴヤ球場で繰り広げられたプロ野球で初めての最終戦同率首位決戦、いわゆる“10.8”だ。この90年代、巨人には先発に“三本柱”と呼ばれる投手たちがいた。いずれも持ち味が異なる3人の右腕が、この決戦のマウンドをリレーしていく。

 3人の最古参で、その先発のマウンドを託されたのは槙原寛己だ。ドラフト1位で82年に入団し、翌83年には快速球を武器に12勝を挙げて新人王。高速スライダーを習得してからは安定感を増し、この94年には5月18日の広島戦(福岡ドーム)で完全試合を達成するなど、力と技を兼ね備えたピークだった。

 2番手で続くのは、90年代“最強のエース”斎藤雅樹だ。槙原が入団した翌83年のドラフト1位。当時の藤田元司監督からサイドスロー転向を指示され、80年代の中盤は故障に苦しむも、89年にはプロ野球記録の11連続完投勝利を含む20勝、防御率1.62で最多勝、最優秀防御率の投手2冠に。翌90年にも20勝を挙げて2年連続で投手2冠に輝いた。

 そして最後は、PL学園高のエースとして甲子園を沸かせ、86年にエースナンバー18を継承した桑田真澄。ドラフトの経緯で甲子園のヒーローから巨人の“ヒール”となりかけたが、2年目にして防御率2.17で最優秀防御率に輝き、以降も抜群の投球術で勝ち星を積み重ねた。

 そして迎えた“10.8”。85年に阪神のバース、掛布雅之岡田彰布に“バックスクリーン3連発”を浴びるなど、名場面で“やられ役”の印象も強い槙原が、2回裏にKOされる。代わった斎藤は1失点も5回3安打の好投で、打線もリードを広げていった。7回裏からは、長嶋監督から「しびれる場面で行くぞ!」と言われていた桑田が3点のリードを守り抜く。巨人は長嶋監督が復帰してからの初優勝。14勝、リーグ最多185奪三振でMVPに選ばれた桑田だが、それまではバッシングを受けることのほうが多かった。だが、この“10.8”で熱い声援を受け、いつの間にか泣いていたという。

「今日は僕1人で投げるんじゃない。日本中の巨人ファンが僕の体を使って試合をするんだ」

 そんな全身全霊のマウンドだった。

 力投した斎藤も、マウンドで吠えまくった。

「あれが僕のベストピッチでしょうね」

 と振り返る。その一方で、先発の槙原は、

「今日はメロメロでした。後の2人で感謝です」

 と試合後に語りながらも、雪辱の牙を研ぐ。西武との日本シリーズでは完封、完投勝利で日本一の胴上げ投手、シリーズMVPに。これが長嶋監督にとっても初の日本一だった。

21世紀に迎えたフィナーレ


 その後も90年代を投げ抜いた3人。90年代だけで最多勝4度の斎藤が挙げた126勝は90年代の“最多勝”でもある。

 槙原は98年にクローザーを託されたことが運命の分かれ目となる。すでに通算150勝にも到達していたが、チーム事情を考えれば、自分が首脳陣でもクローザーには槙原を選ぶだろうと思ったという。98年に18セーブ、翌99年には23セーブをマークしたが、続く2000年は故障の連続。同様に斎藤も故障が続き、巨人が20世紀で最後の日本一となった00年のダイエーとの日本シリーズでは勝利投手にもなっているが、その試合後に引退を申し入れて、長嶋監督から「あと1年やってくれ」と慰留されていたという。

 そして翌01年、長嶋監督の勇退とともに、槙原と斎藤は、長くバッテリーを組んできた村田真一と一緒にユニフォームを脱いだ。

 ひと回り若い桑田は95年に右ヒジじん帯を損傷する重傷も、97年に復帰。クローザーに回ったことで苦しんだ時期もあったが、槙原と斎藤が去った翌02年に復活を遂げる。そして07年に海を渡り、パイレーツとマイナー契約。39歳と70日にしてメジャーのマウンドにも立ち、翌08年3月に現役を引退した。

写真=BBM
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