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川口和久WEBコラム

金田正一さんとの「おい、こら」から始まったお付き合い、そして、もっと前の一本の電話/川口和久WEBコラム

 

心も大きな人だった


ロッテ1期監督時代の金田氏。元気だった



 第一声は「おい、こら!」だった。

 カープ入団3年目、15勝をした1983年の夏だったと思う。
 暑い日だった。知り合いと待ち合わせで、広島市民球場に近い喫茶店に入った。冷房がよく効いていて、ほっと一息ついた瞬間だった。
「おい、こら!」
 大きな声がした。
「誰かな」と思って見渡したら、
「川口、こっちこい!」
 それが金田正一さんとの出会いだ。キャンプであいさつくらいはしたかもしれないけど、ほぼ初対面だった。
 あわてて駆け足で近づくと、
「もっと体を大事にせえ。投手は体が資本や。どんなときも長袖を着ろ」
 確かに半袖でした。夏ですもん。でも、すぐ、
「はい、分かりました」
 と直立不動で即答した。
 その後は、夏でも長袖でピッチングするようにした。今のアンダーウェアとは違って、ごわごわして暑かったけど、“神様”の言葉だからね。

 俺はずっと「なんでこの人は、国民栄誉賞じゃないんだろ」って思っていた。だって400勝だよ。俺が投手だったからなおさらそう思うのかもしれないけど、とんでもない大記録。打者で言えば、王貞治さんの868本塁打にも匹敵する。
 しかも、投手で38本塁打。
 もうこんな選手、絶対に出てこない。

 カネさんとは、少なからず縁があった。

 1つめは背番号。俺はカープでカネさんの永久欠番である34番を着けた。一応、ドラ1左腕だったから期待してもらったんだと思う。
 ただ……、本音を言えば、16番をつけたかったんだ。川上哲治さんの番号で、巨人の星の星飛雄馬だからね。巨人じゃ絶対、着られないけど、広島でならと思った。
 これは蛇足でした。

 2つめは仲間。カープでカネさんの甥の金石昭人がいて仲良くなった。先輩には弟の金田留広さんもいて、すごくかわいがってもらった。
 彼らとのつながりで、カネさんとも何度も食事をした。引退後もゴルフをしたり、名球会の野球教室に呼んでもらったりと、本当によくしてもらった。
 もちろん、俺だけが特別じゃない。カネさんは優しい人だったから、いつもたくさんの人が周りにいた。
 
 もう誰にも迷惑はかけないと思うから書いておくが、カネさんとは実はもう一つ縁があった。

 高校3年のとき、学校の監督レベルまでだったが、プロから誘ってもらった。プロは夢としてはあったが、今行っても無理だろう、社会人で力をつけてからにしようと思い、監督に言って、スカウトの皆さんに断りを入れていた。
 
 それがドラフト前日だったと思うけど、鳥取の俺の実家に電話があった。それをたまたま俺が取ったら、
「もしもしカネダですが」
 声ですぐ分かった。当時ロッテの監督だったカネさんだ。
「あ、どうも川口です」
 あわてて言ったら。
「おお、君が川口君か。ぜひロッテに来てくれないか」
 と言ってきた。
「いえ、実は社会人に行くことが決まっていまして、そこで頑張って力をつけた後、また声をかけていただければと思います」
 と言ったんだが、「1位でもいいぞ、どうだ」と。もう会社に内定ももらっていたから、必死に断っていたら、
「もし、気が変わったら入れるように6位で指名しておくよ」
 と言われた。
 当時のドラフトは6位までだったから「一応」ということだろうけど、当日、本当に俺の名前が呼びあげられ、びっくりした。

 俺は結局、80年のドラフトで指名され、広島に入ったが、そのときはもう、カネさんはロッテの監督じゃなかった。

 カネさんがあのとき「俺が直接電話したのに生意気なヤツや」と思っていても不思議じゃない。
 でも、プロ入団後に会ったときは、そんなことはまったく言わない。引退後、いつ会っても「おお、川口」と大きな声と笑顔があった。
 年齢も86歳だから大往生ではあるんだが、どうにも亡くなったことが信じられない気持ちがある。
 原辰徳監督も言っていたけど、カネさんって不死身だと思っていたから。もしかしたら俺より長生きするんじゃないかって。そのくらいエネルギッシュな人だった。

 大きな記録をつくった大選手で、心も本当に大きな人だった。今は、すごく寂しい。

写真=BBM
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