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プロ野球20世紀の男たち

スタンカ&バッキー「東京オリンピックの64年に頂点を極めたナニワの“助っ投”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

東京オリンピック開会式の日に燃えた大阪


南海・スタンカ


 初の東京オリンピックが開催された1964年は、プロ野球では大阪が熱かった。迎える2度目のオリンピックは真夏に開催される予定だが、この64年は10月10日が開会式。このため、プロ野球もペナントレースも日本シリーズも例年より前倒しして開幕した。そして、その10月10日が、南海と阪神という在阪2チームが雌雄を決した日となった。

 MVPは4勝3敗で日本一に輝いた南海のスタンカだ。ペナントレースでも自己最高、リーグ2位の防御率2.40、26勝7敗でリーグトップの勝率.788でMVPに輝いた右腕。そして日本シリーズでは、南海は2勝3敗から敵地の甲子園球場での連戦となったが、その第6戦、第7戦でも先発、

「連投には驚いたが、鶴岡(一人監督)さんの期待に応えたかった」(スタンカ)

 と、連続完封で日本一を呼び込んだ。一方の阪神にいたのが、シーズン29勝、防御率1.89で最多勝、最優秀防御率の投手2冠、外国人投手としては初の沢村賞にも輝いた右腕のバッキー。そんな“助っ投”対決も話題を集めた。

 スタンカは60年に来日して南海へ入団、1年目から17勝を挙げて鶴岡監督の信頼を勝ち取り、Vイヤーとなった翌61年も15勝。当時は別次元の身長196センチながらスリークオーター気味の投球フォームで、素直なストレートは少なく、少しだけ沈む高速シンカーを皮切りに、ほとんどの球が打者の手元で動いた。打者を踏み込ませないために、その体へ向かってガンガン投げ込む、いわゆる“ビーンボール”も武器にした。

 ただ、判定への不服から頭に血が上りやすく、巨人との日本シリーズ第4戦(後楽園)では9回裏、自信満々のシンカーがボールと判定されて激怒、直後にサヨナラ打を浴びて、ベースカバーの際に球審へ体当たり。そのままファンも乱入する騒動となり、続く第5戦(後楽園)でも危険球を投じて、警官隊までが出動する大騒動に発展している。

 身長191センチ、長い手足をくねらせながらの“スネーク投法”でナックルなど多彩な変化球を繰り出したバッキーは、スタンカとは対照的に、62年の夏にテストを受けて阪神へ。「行き先は球に聞いてくれ」(バッキー)

 というほどの制球難で、そのとき捕手を務めた“ダンプ”辻恭彦は「どこに球が行くか分からない。手の長いクモみたいな投手でした」と第一印象を振り返り、藤本定義監督も「お慈悲で取ってやった」と語ったが、その藤本監督の指示でフォーム改造に着手。63年にスライダーを習得したことで、64年にブレークした。

ともに通算100勝


阪神・バッキー


 スタンカは高速フォーク、いまで言うスプリットを習得したことに加え、鶴岡監督が家庭を大事にするスタンカのために遠征への帯同を減らして自宅から通える関西地区での登板を増やしたことも64年の好調につながり、快進撃の起爆剤となった。

 だが、翌65年に最愛の長男が事故死したことで自暴自棄となり、アルコールにも溺れて、そのまま退団。それでも「もう1度、野球をやっている姿を見せて」という夫人の励ましで一念発起、大洋に66年の1年だけ在籍して、あらためて引退した。

「コントロールはコヤマさん(小山正明)、ガッツファイティング・スピリットはムラヤマさん(村山実)から学んだ」(バッキー)

 と語っているバッキーだが、原動力となったのは自身のハングリー精神。翌65年には巨人を相手にノーヒットノーランも達成、68年にはスタンカと並ぶ通算100勝にも到達した。だが、その更新がかかった68年9月18日の巨人戦(甲子園)で、王貞治へ投じた危険球から乱闘となり、巨人の荒川博コーチを殴打して右手の親指を骨折。これで実質的に選手生命を絶たれてしまった。

 バッキーも近鉄で69年の1年だけプレーして引退。いわゆる文化住宅に住み、球場へは自転車で通った庶民派で、ファンやチームメートからも愛された。

 ともに通算100勝。そして、ともに人間くさい。南海と阪神で一時代を築いた、という賛辞だけでは、すこし物足りない気がする。

写真=BBM
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