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ホークス対ジャイアンツ日本シリーズ激闘史

実は「因縁」の対決でもあった南海×巨人“初の頂上決戦”/ホークス対ジャイアンツ日本S激闘史【1951年】

 

10月19日から始まる日本シリーズに3年連続で出場するソフトバンク。南海、ダイエー時代を含めて頂上決戦に挑むのは19回目となるが、ここでは過去のホークス対ジャイアンツの日本シリーズでの激闘を振り返っていく。

因縁の三原ポカリ事件


 ホークスが誕生したのは1938年(当時は南海でホークスの愛称がついたのは戦後)。当初は戦力も足りず優勝争いに加わることはできなかったが、戦後プロ野球が復活した1946年(当時は1リーグで8チーム)、山本(鶴岡)一人が監督兼選手としてチームを牽引して初優勝を成し遂げた。1948年に2度目の優勝を果たし1950年、2リーグに分立したときにパ・リーグに加入した。

 1年目は毎日(オリオンズ)に優勝をさらわれたが、2年目の1951年は勝率.750、2位の西鉄(ライオンズ)に18.5ゲーム差をつけ初のリーグ優勝を果たした。リーグの3割打者はたったの7人だが、うち三塁手の蔭山和夫、二塁手の山本、遊撃手の木塚忠助と3人を擁し、24勝で最多勝の江藤正、19勝の柚木進中谷信夫服部武夫も2ケタ勝利を挙げ、リーグでは圧倒的な強さを誇った。

 セ・リーグに加入した巨人も1年目は優勝を逃したが2年目に優勝。日本シリーズで初めて顔を合わせることになったが、実は「因縁」の対決でもあった。

 1948年に26勝を挙げ南海の優勝に大きく貢献した別所昭(翌年から毅彦)が待遇面に不満を抱いていることを知った巨人が引き抜きに走った。別所はシーズンオフに南海との交渉を進めたが決裂。その間、巨人と交渉していたことも発覚。連盟まで巻き込んだ騒動となり、結局、優先権のある南海との交渉は決裂し巨人入りが決まったのだが、巨人は事前交渉を行ったため10万円の制裁金。別所は開幕から2カ月間出場停止処分を受けた。

 この直後のペナントレースでも事件が起きた。4月12日から因縁の対決として行われた南海−巨人3連戦の3戦目。9回の南海の攻撃で、一塁走者・筒井敬三が次打者の一ゴロで二塁に向かうが、そのとき、併殺を妨害するようなスライディング見せ、筒井と遊撃手・白石勝巳が口論。巨人・三原修(のちに脩)監督は守備妨害をアピールしたが認められず、三原監督はベンチに戻りかけたが、筒井と白石はまだエキサイティングしており、これを見て三原監督が筒井の頭を「ポカリ」と殴打。「三原ポカリ事件」として後世に語り継がれるのだが、三原は無期限出場停止(のちに100日間となる)の処分を受けた。

情報をフル活用した巨人に完敗


日本シリーズを戦い終えて山本監督(右)、水原監督が握手


 こんな「歴史」があって迎えた1951年の日本シリーズ。

 注目の第1戦(大阪)、南海の先発は最多勝の江藤だったが、巨人はチーム最多勝(21勝)の別所ではなく、15勝を挙げた藤本英雄。「打倒・別所」を目論んでいた南海打線は肩すかしを食わされた感があった。藤本から10安打を放ちながら、勝負どころでかわされ0対5で完封負けを喫した。7回まで毎回ランナーを出してはいたが、先頭打者はきっちりと抑えられた。8回にようやく先頭の山本がセンター前で出塁するが、続く堀井数男のときに二盗失敗。堀井がライト前に運び再び出塁するというちぐはぐな攻撃も目立ち、完敗だった。

 第2戦、巨人は別所をマウンドに送った。初回南海は一死から木塚が三塁強襲ヒット、それを三塁の宇野光雄が一塁に悪送球し、一死二塁と先制のチャンスをつかむ。しかし、続く飯田徳冶の初球前、牽制球でタッチアウト。絶好のチャンスを摘んだ。前日は完封負け、別所から先取点を取りたいという気持ちの焦りが生んだプレーだ。巨人は2回に3点、3回にも2点を取り試合を優位に進め7対0で圧勝。南海打線は別所から散発の6安打に抑えられた。

 後楽園に移動した第3戦、南海の先発・中原宏は初回に2点を失ったものの、その後好投。打線は7回に先頭の飯田がセンター前に運ぶとすかさず盗塁し無死二塁のチャンスをつかむ。続く四番の山本は三遊間を抜くタイムリーを放ち、シリーズ25イニング目に初めての得点を挙げた。今度は一死二塁から簑原宏が左中間に大飛球を放ち誰もが同点と思ったが、青田昇が背走し好捕。8回には巨人が1点を追加し1対3で3連敗を喫した。

 雨で2日流れた第4戦。南海は3回、メジャーや広島で活躍した黒田博樹の父、黒田一博の中前打、筒井の二塁内野安打の連打でチャンスをつかみ、蔭山の先制2点タイムリー、二死一、三塁からのダブルスチール、山本のタイムリーで一気に4点を先制。南海の先発は19歳の服部武夫。シーズン防御率2.03の好成績を残したが、低めをつく丁寧なピッチングを見せ4回二死から8回まで14打者を凡退に打ち取るなど好投。9回に代打・樋笠一夫の3ランで1点差に迫られるが、リリーした柚木が後続を抑えやっと一矢を報いた。

4勝1敗で巨人が南海を下して初の日本一。水原監督が胴上げされた


 第5戦は巨人打線が4本塁打と爆発し8点。南海は第1戦で完封負けした藤本を打てずに8回まで無得点。9回に代打の村上一治の2ランで完封は免れたが2対8で敗れ、初の日本一には届かなかった。

 南海はこの年、191盗塁と機動力を武器としたチームだった。現に戦後の1946〜1948年まで河西俊雄、1949年からこの年まで木塚が盗塁王を独占している。しかし攻走守すべてにおいて上をいき、また臨時のスコアラーを置き情報をフルに活用した巨人に完敗を喫した。山本監督は「スケールの違い」を感じ取ったという。ここから「打倒・巨人」への長い道のりが始まったと言っていい。

写真=BBM
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