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プロ野球20世紀の男たち

アルトマン、ロペス、リー、レオン、ディアズ&フランコ「東京の下町から川崎、そして千葉は幕張へ。ロッテ強打の助っ人たち」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

“光の球場”で輝いた凸凹コンビ



 1992年に千葉へ移転し、すっかり根を下ろしたロッテ。愛称のマリーンズも完全に定着したが、その起源をさかのぼると、2リーグ分立の50年に行き着く。その50年にパ・リーグを制し、日本シリーズ初代王者になった毎日オリオンズが原点だ。

 58年には大映と合併して大毎オリオンズとなり、60年には2度目のリーグ制覇。そして62年、名物オーナーとしても知られる永田雅一の悲願だった新球場が完成する。場所は近未来的なイメージの強い現在の幕張とは対照的に、戦争の焼け跡どころか江戸の面影さえも残る東京の下町、南千住。ただ、球場は当時からすれば近未来的だった。ナイターが開催されれば下町を明るく照らし、“光の球場”と呼ばれた東京スタジアム。チーム名も64年から東京オリオンズとなり、3度目の歓喜への舞台は着実に整いつつあった。

 そんな68年、2人の助っ人がオリオンズに馳せ参じる。1人は197センチと長身のアルトマン、もう1人は176センチと助っ人としては小柄なロペス。ともに外野手で左打者、2人で“大政、小政”とも言われたが、とにかくマジメなアルトマンは見た目どおり“足長おじさん”、ムードメーカーのロペスは“下町の太陽”とファンに愛された。

 そして翌69年がロッテ元年だ。続く70年は2人して球団3度目、ロッテとしては初のリーグ優勝に貢献。だが、ロペスは71年オフにヤクルトへと去り、東京スタジアムも経営難から翌72年に閉鎖される。ロッテは県営宮城球場を中心に川崎、後楽園、神宮などを転々とする“流浪の球団”となった。

 それでも、そんなロッテに残っていたアルトマンは74年、就任2年目の金田正一監督とともに、ロッテを4度目の頂点へと引っ張っていく。8月7日までの85試合で打率.351、21本塁打、67打点と打ちまくり、三冠王も射程圏に入る勢いだったが、その翌朝、激しい腹痛と下痢、そして出血で緊急入院。大腸ガンと診断され、そのまま戦線を離脱する。

 だが、それでナインは一致団結。後期優勝、プレーオフ制覇、そしてロッテ初の日本一へと駆け上がっていった。ただ、そのオフ、健康不安と功労金に関する交渉がこじれてアルトマンは阪神へ。そして、これがオリオンズ最後の栄光となってしまう。

リー兄弟もいた“川崎劇場”


ロッテ・リー(左)、レオン


 さすらいのロッテへ77年に入団したのがレロン・リー。ようやく本拠地が川崎球場に定まった翌78年には、その弟のレオン・リーが加わる。兄弟だけに見分けがつきづらかったが、兄のリーは左打者で外野手、弟のレオンは右打者で内野手だった。リーは1年目から34本塁打、109打点で打撃2冠。打率.358で初の首位打者に輝いた80年はレオンもリーグ2位の打率.340で、ともに前期優勝の立役者に。レオンは好調を維持しながらも82年オフに解雇されて大洋へ移籍したが、残ったリーは87年までプレー。通算打率.320は4000打数を超えた打者のプロ野球記録として長く残っていた。

 川崎と幕張の両方を経験したのがディアズだ。89年に入団、以降2年連続で30本塁打、100打点、打率3割をクリアして、90年には助っ人としては珍しくマスクもかぶった。ロッテが千葉へ移転すると、強風が名物でもある千葉マリンでゴーグルを着用したパイオニアでもあったが、千葉1年目の92年オフに退団。94年からは外国人選手の出場選手登録枠が2人から3人に増えたこともあり、各チームで助っ人が増えていく。

 そんな時代に異彩を放ったのがフリオ・フランコだ。入団した95年はピンクのポップなユニフォームだったが、これを嫌がり、黒を基調としたシックなものに変えさせた男でもある。バットのヘッドを投手に向けて揺らす独特なフォームでオリックスイチローと首位打者を争うも、1年で退団。だが、98年に選手会の要望で異例の復帰、キャプテンを任されたのも助っ人としては異例だった。

 その98年、ロッテは最下位に沈んだが、“千葉ロッテ”のターニングポイントとなったシーズンとも言われる。これについては、また機会を改めて。

写真=BBM
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