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プロ野球20世紀の男たち

大沢啓二「南海で親分の子分だった日本ハムの親分」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

南海では外野陣のリーダーとして



 名将とは言い切れない。知将や闘将とも、少し違う。ただ、これほどまでにファンから愛された監督もいないだろう。日本ハムの“親分”大沢啓二監督。その言動はファンを沸かせ、ナインを鼓舞した。インパクトも抜群だが、その若かりし日々にも“らしい”逸話は多く残る。

 べらんめえ調の“大沢節”から江戸っ子のようだが、神奈川県の出身で、神奈川商工高では甲子園にも出場している。3年の夏は県大会の2回戦で敗退すると、自分たちに不利な判定を続けた球審にキック。すると後日、その球審が訪ねてきて、「君のように野球がうまくて元気な人間がウチには必要だ。来てくれないか」と言われる。その球審は立大の野球部に所属していた。自分を蹴った人間に頭を下げる熱意。これで、立大への進学を決めた。

 立大では2度のベストナイン。後輩には長嶋茂雄(のち巨人)、杉浦忠(のち南海)がいた。4年になると、今度は南海の山本(鶴岡)一人監督が訪ねてくる。「南海は日本一になれない。君と長嶋(茂雄)くん、杉浦(忠)くんの力を借りたい。俺を男にしてくれ」。南海の“親分”による三顧の礼もあって、56年に南海へ。長嶋と杉浦も「先輩が行くなら」と了承した。長嶋は一転、実家に近い巨人へ入団したが、杉浦は約束どおり、58年に入団。この3人が、ふたたび一堂に会したのは、翌59年、南海と巨人の日本シリーズだった。

 第1戦(大阪)は1点リードの1回裏に五番の長谷川繁雄が初球スクイズに失敗したところで代打として登場。適時打を放って2点目を稼ぎ、岡本伊三美の犠飛で4点目のホームを踏んだ。そのまま中堅の守備に入り、4点リードの7回表二死一、二塁の場面で、マウンドには杉浦、打席には長嶋がいた。長嶋の打球は右中間への長打コースとなったが、これを好捕。

「(杉浦が)外角で勝負したので右寄りに、間を抜かれないように守っていた」

 長嶋の2ランで巨人が先制した第2戦(大阪)でも中堅手として、8回表二死一、二塁から守備で魅せた。5回表からの救援登板で連投となった杉浦の調子と打者の構えから判断。あらかじめ左翼に寄って待つと、国松彰の打球は左中間へ。快足を飛ばして、ふたたび好捕した。

「このへんかな、というところから、さらに左へ行ったら(打球が)飛んできた」

南海の退団が指導者の道に


 第3戦(後楽園)の守備が圧巻だ。1点リードの7回裏、先頭の長嶋が右中間へライナー性の打球を放ち、またしても好捕する。坂崎一彦のソロで同点に追いつかれた9回裏一死二、三塁では、森昌彦のテキサス性の打球を、あらかじめ遊撃すぐ後方で待ち、これを捕って二死、そして怒涛のバックホーム。タッチアップして本塁から3メートルほど手前で憤死した三走の廣岡達朗は「とにかく勘がいい。大沢に負けたといえる」と語った。第4戦(後楽園)も6回裏から中堅に入り、南海は初の日本一に輝く。

「ようやく鶴岡さんの言葉に応えられた」

 巨人の水原円裕監督は「南海の選手とウチで心構えに多少の差があった」。解説していた西鉄の三原脩監督は「大沢くんに小型の(MVP商品の)トヨペットをあげて」と賛辞を送った。

 62年に「大沢昌芳」から「大沢啓二」に改名も、64年オフに球団と衝突、東京で1年だけプレーして現役を引退した。これが指揮官への道につながる。ロッテとなったチームで、71年に濃人渉監督が放棄試合を招いたことで退任し、二軍監督から昇格。72年まで指揮を執り、76年には日本ハムの監督に。鶴岡“親分”の名言「グラウンドには銭が落ちている」に、

「プロなら自分で拾え!」

 と付け加えて選手を鼓舞。就任7年目の81年には広島から江夏豊を獲得して日本ハムを初優勝に導いた。82年は広岡監督の率いる西武にプレーオフで苦杯。83年オフに勇退したが、自ら後任に推薦した植村義信監督の辞任で84年6月に常務と兼任で復帰して、閉幕まで指揮を執った。そして93年に低迷する日本ハムの監督に復帰。森監督の率いる黄金期の西武に“包囲網”を敷くなどパ・リーグを沸かせたが、この第2期については、いずれ詳しく。

写真=BBM
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