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プロ野球20世紀の男たち

田宮謙次郎、三宅秀史、藤本勝巳、遠井吾郎、藤井栄治、藤田平、ラインバック……&渡辺省三、古沢憲司、上田二朗……「巨人に牙をむいた投打の猛虎」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

鉄壁の内野陣



 1リーグ時代に4度の優勝を飾った阪神。まさに巨人のライバルであり、時には巨人をも圧倒する勢いを誇ったが、2リーグ分立で戦力が激減したこともあって、その後は巨人に牙をむく阪神、という構図が定着していく。一方の巨人は1950年代に黄金期へ突入し、65年からはV9がスタート。盟主として君臨し続ける巨人に、阪神は牙をむき続けることになった。

 長く正遊撃手を担った吉田義男については紹介したが、その吉田に遊撃を譲り、鉄壁の二遊間を形成したのが、Vイヤーの48年に入団した白坂長栄。「ゴロを捕るために生まれてきた男」と言われた名手で、その白坂の後継者となったのが57年に入団した鎌田実だ。ただ、50年に18本塁打を放った白坂の一方で、鎌田は通算17本塁打で悪球打ちが代名詞。それでも守備は絶品だった。

 そんな吉田、鎌田と内野陣を形成したのが吉田と同期で53年に入団した三宅秀史(伸和)だ。その三塁守備も史上最高と称されたが、62年に悲劇が起きる。試合前の練習で左目に球を受けたことで、57年にスタートしていた連続フルイニング出場が700試合で途切れただけでなく、視力も低下。その後は出場機会を減らしていった。

 鉄壁の内野陣で一塁を守ったのが56年に投手として入団した藤本勝巳だ。投手から打者に転向して開花する選手は、この時代の阪神には多い。49年に入団した田宮謙次郎は、翌50年には完全試合に迫る快投を演じた左腕だったが、52年から外野手としての起用が増え、54年には初の規定打席で打率.300。58年には打率.320で首位打者に輝き、当時あったA級10年選手の資格を取得、これで移籍の自由を得たが、阪神が引き留めに熱心ではなく、大毎へ移籍して“ミサイル打線”の中軸を担うことになる。

 藤本の前に一塁を守っていた渡辺博之も50年に入団したときは投手。すぐに外野手となり、藤村富美男が兼任監督となったことで一塁へ回った。フォーク打ちの名人で、54年には91打点で打点王に輝いている。

 藤本も59年の天覧試合で四番に座って本塁打、翌60年には22本塁打、78打点で本塁打王、打点王の打撃2冠。その後継者となったのは58年に入団した“ホトケのゴロちゃん”遠井吾郎で、恰幅のいい体型にメガネ、温厚で面倒見のいい性格に屈指の酒豪という抜群のキャラクターでチームメートにもファンにも愛された。球界きっての鈍足でもあったが、70年の球宴で見せたランニング本塁打は語り草になっている。

 吉田の後継者が66年に入団した藤田平。阪神だけで初めて通算2000安打に到達したヒットメーカーだ。その藤田と二遊間を形成したのが72年に入団した中村勝広で、その二塁守備も堅実だった。

“精密機械”の元祖


阪神・渡辺省三


 外野で堅守を誇ったのが、ライトゴロも見せ場だった“鉄仮面”藤井栄治だ。62年に入団して即戦力となったが、同じ外野手で、60年にセ・リーグ初の高卒新人開幕戦先発出場を果たしたのが並木輝男。巧打と勝負強さで“ゴジラ”とも呼ばれた。勝負強き外野手では代打サヨナラ満塁本塁打を含むサヨナラ弾5本の池田純一(祥浩)もいる。

 池田が入団したのは巨人V9が始まった65年。その後の外野陣には68年から爪楊枝をくわえたプレーで沸かせたカークランド、76年からはハッスルプレーで人気を博したラインバックら助っ人も並んだ。

 一方の投手陣。すでに小山正明村山実江夏豊は紹介しているが、彼らの先輩で、5年目の56年に自己最多の22勝、防御率1.45で最優秀防御率に輝いた右腕の渡辺省三は、小山も参考にしたという“精密機械1号”だ。その後も16歳で64年に入団した古沢憲司に続き、70年にはサイドスローの上田二朗(次郎、次朗)、71年にはフォーム修正でブレークした谷村智博(智啓)ら右腕が続々と入団する。

 上田は73年に22勝を挙げ、阪神も巨人を最終戦まで追い詰めたが、その最終決戦で完敗。巨人に目の前でV9を決められ、虎党は怒り狂って甲子園のグラウンドへ乱入していった。

写真=BBM
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