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プロ野球20世紀の男たち

大下弘「焦土に希望を呼んだ虹の生涯」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

戦争の焼け跡に架かった虹のアーチ


東急・大下弘


 1945年8月、終戦。空襲で各地は焦土と化し、多くの人命も奪われた。希望を抱くことさえ難しかったことは想像に難くない。ただ、戦争に突入し、戦局が悪化していった時期よりも、絶望する人は少なかっただろう。休止を余儀なくされていたプロ野球だったが、その動きは素早かった。11月には早くも東西対抗という形で復活。そこで奇跡は起きた。

 巨人阪神、名古屋(中日)、阪急、近畿日本(南海)、朝日、新球団のセネタースが参加。巨人の千葉茂や阪神の藤村富美男、近畿日本の鶴岡一人ら戦前から第一線で活躍していた男たちが再び一堂に会した。みなガリガリに痩せていたが、野球をできる喜びで、目だけはキラキラと輝いていたという。

 第1戦は雨天で中止となったが、第2戦(神宮)には5878人もの観客が詰めかける。続く第3戦(西宮)。東軍の五番打者が放った本塁打は、それまで誰も見たことがないような軌跡を描き、一瞬にして人々の希望となる。東西対抗の全4試合を通じて、ホームラン賞、殊勲賞、最優秀選手賞、そのすべてを受賞したのは、23歳の誕生日を間近に控えた無名の若者だった。

 大下弘(セネタース)。翌46年にリーグ戦が再開されてからも、その快進撃は止まらなかった。それまでのシーズン最多は10本塁打だった時代、いきなりの20本塁打で本塁打王に。ただ、とにかく荒削りで、「外角は打てない」「変化球は打てない」と言い切って、80三振もリーグ最多。周囲の期待はホームランと痛感して、ひたすら狙い続けたためだった。愛称は“ポンちゃん”。ポンポンと白球を高く、そして遠くへと飛ばすからだという。

 その6月には巨人に川上哲治も復帰。同じ左打者でもある川上にあこがれを寄せた一方で、ライバル心も隠さなかった。川上がバットを粗悪なペンキで赤く染め上げると、「俺は突き抜けるような青でいこう」と、“青バット”を相棒にする。川上の“赤バット”とともに復興の象徴となっただけでなく、そこから放たれる“虹のアーチ”は、川上らアベレージヒッターを刺激していった。

 プロ野球に巻き起こった空前のホームラン・ブーム。川上らは大下の打撃を分析し、どうしたら球が飛ぶのかを研究する。こうして、プロ野球の打撃技術は一気に進化していった。

“青バット”は塗料が球についてしまうため禁止されたが、本塁打の量産体制は変わらなかった。49年には飛ぶ“ラビットボール”が採用されたことで全体的に本塁打が急増していく。対照的に、47年には本塁打王と首位打者の打撃2冠、推定飛距離170メートルの特大本塁打を放った49年にも打率3割を突破するなど、荒削りだった打撃には安定感も加わっていた。

三原と張本の証言


左から西鉄・豊田、中西、大下


 2リーグ分立の50年には2度目の首位打者、翌51年には2度目の打撃2冠。このときの打率.383は86年に阪神のバースが更新するまで、長くプロ野球の頂点に君臨し続ける。

 その一方で、鬱憤は限界に達していた。セネタースは東急となっていたが、母の治療のため給料を球団から前借り。自ら集めてきた後輩たちには契約金が支払われず、その世話で出費が重なる。球団と衝突するのも時間の問題だった。そして、失踪。すでにペナントレースが開幕していた52年4月11日に、西鉄への移籍が決まる。

 西鉄では中西太豊田泰光ら若手の精神的支柱となり、長打力こそ衰えたが、バットコントロールは健在で、黄金時代の礎を築く。54年の初優勝は、自身にとっても初めての経験だった。57年には巨人との日本シリーズでMVPに。引退は59年。酒と女にまつわる逸話も量産されたが、その真偽は不明だ。68年に東映の監督となったが、すぐ辞任している。

 その手のひらを見た西鉄の三原脩監督は「ゴツゴツとしたマメだらけの手だった。これほどの天才が、こんなに努力しているのか」と証言する。東映の張本勲は「純粋無垢でありすぎた。監督にしてはいけない人だった」と振り返った。晩年は少年野球の指導に励み、79年に死去。書き残した日記には、こんな一節があった。

「子どもの夢は清く美しい。あえて私は童心の世界に飛び込んでゆく」

写真=BBM
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