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プロ野球20世紀の男たち

松本匡史&高橋慶彦「80年代セ・リーグを駆け抜けた2人の俊足スイッチヒッター」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

青い稲妻vs.機動力野球の申し子



 時代が変われば野球も変わる。用具の質が変わってだけで記録は変わってくるものだ。20世紀の野球と21世紀の野球を、数字だけを根拠に甲乙をつけるのは適切ではない場合が多い。ただ、盗塁に関してだけは、20世紀の野球に軍配を上げてもいいのではないか。まず、全試合数が少ないにもかかわらず、盗塁の企図数からして違う。リスクを背負いながら二盗、三盗と次の塁を狙っていっても、次に本塁打が出たら一見すると身も蓋もないのかもしれないが、じわじわと相手チームを追い詰める目に見えない部分はあるだろう。

 少なくとも、豪快な本塁打にファンは立ち上がるが、勝利に貪欲な盗塁にはファンは前のめりになる。俊足で鳴らす走者が塁に出れば、投手と打者だけを見ていればいいだけではなくなる。内野手も動き、外野手も動く。これもファンは見逃すわけにはいかないのだ。テレビで観戦していても、「走った!」と実況が叫ぶ場面も、明らかに減った。

 阪急の“世界の盗塁王”福本豊については、すでに紹介した。70年代のパ・リーグでは盗塁王は完全に福本の“牙城”。一方のセ・リーグは入れ替わりが激しかった。シーズン盗塁、通算盗塁では福本に及ばないが、80年代のセ・リーグでは、2人の韋駄天がハイレベルなタイトル争いを繰り広げた。1人は巨人松本匡史、もう1人は広島の高橋慶彦だ。ともに猛練習で這い上がってきたスイッチヒッター。巨人と広島が常に優勝を争う位置にいたのも興味深い。

 プロの先輩は高橋だ。城西高の四番エースとして74年に夏の甲子園で活躍し、ドラフト3位で翌75年に入団。2年目の秋にはスイッチヒッターに挑戦した。1日1000スイングの猛練習で手のひらにマメができてはつぶれ、にぎったバットが手から離れなくなったという。

 2学年の上となる松本も報徳学園高で甲子園に出場し、早大を経てドラフト5位で77年に入団。当時は外野手で、肩の脱臼グセが治らず79年に手術、その秋の“地獄の伊東キャンプ”で外野手、そしてスイッチヒッターに挑戦した。ミス連発に涙を流し、その姿を長嶋茂雄監督は「涙汗」と表現。その79年、初の日本一に輝いた広島では、高橋が55盗塁で初の盗塁王に輝いている。

 翌80年は38盗塁に終わったが(?)、2年連続で盗塁王。高橋の盗塁が激減した81年に盗塁王を争ったのが松本だ。わずか1盗塁の差、しかも最終戦でヤクルト青木実にタイトルを譲ったことで、闘志に火がつく。 翌82年は、水色の手袋で塁間を駆けて“青い稲妻”と呼ばれた松本が61盗塁で盗塁王、2位は高橋で43盗塁。大差をつけた松本の初タイトルだったが、これは続く83年の激しいタイトル争いの序章でもあった。

松本は92で76、高橋は91で73


巨人・松本匡


 シーズン100盗塁を掲げた松本だったが、高橋は4月に12盗塁、5月に15盗塁と快進撃。だが、4月は4盗塁に終わった松本は5月に20盗塁、6月に21盗塁で逆転する。その後は打撃不振や重圧もあって失速したものの、最終的にはセ・リーグ新記録の76盗塁で2年連続の盗塁王。高橋は2位だったが、70盗塁と自己最多を更新した。

 翌84年は松本と高橋、ともに盗塁を一気に減らしたが、その翌85年には高橋が自己最多を更新する73盗塁で3度目の盗塁王に輝いている。なお、盗塁企図数は83年の松本が92、85年の高橋が91で、ともに成功率は8割を超えていた。

 だが、いずれも最後は不遇だった。松本は87年に106試合に出場、盗塁は39から13と激減したものの、オフに球団から任意引退選手にされる。他球団からオファーもあったが、同一リーグ内の移籍を認められず、そのまま引退へと追い込まれた。

 チームメートやフロントとの衝突も多かった高橋は89年オフに追い出されるようにロッテへ。91年には阪神へ移籍して、翌92年オフにユニフォームを脱いだ。

 その後、セ・リーグにもパ・リーグにも、70盗塁を超える盗塁王はいない。もし盗塁でファンと緊張感を共有する野球が彼らの引退とともに終わってしまったのだとしたら、少し寂しい。

写真=BBM

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週刊ベースボール編集部

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