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プロ野球20世紀の男たち

和田豊、八木裕、亀山努、新庄剛志、久慈照嘉、桧山進次郎、今岡誠……「暗黒時代を沸かせた虎の若武者」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

2位に急浮上した92年



 21年ぶりのリーグ優勝、そして2リーグ制となって初の日本一に輝き、“猛虎フィーバー”に沸いた1985年から急転直下、暗黒時代に沈み込んでいった阪神。阪神の代名詞は、いつしか“猛虎”から“ダメ虎”となっていた。

 88年には和田豊中野佐資大野久をアイドルグループにちなんで“少年隊”と売り出したものの、2年連続で最下位に終わり、89年の5位を挟んで90年からも2年連続で最下位に。91年は開幕から閉幕まで最下位に沈みっぱなしだった。翌92年の開幕前、阪神OBの一部を除いて、評論家の予想は、ことごとく最下位。無理もない。だが、いざペナントレースが開幕すると、暴論にも聞こえたOB評論家の予想が的中しかねない勢いで阪神は快進撃を始めた。

「一軍でやれなかったらやめようと思っていた」

 と振り返るのが5年目の亀山努。開幕一軍を果たし、当初は代走や守備固めだったが、果敢なヘッドスライディングでファンを沸かせ、泥だらけの背番号00はリードオフマンの和田に続く二番打者に定着していく。5月には四番で三塁手のオマリーが故障で離脱、代わって三塁に入ったのが新庄剛志だ。初スタメン初打席初球プロ初本塁打の、今から振り返れば“らしい”デビュー。オマリーが復帰してからは中堅へ回り、亀山と右中間で並ぶ。2人は“カメシン”とも“シンカメ”とも言われ、強肩でもチームを盛り上げていく。

 残る左翼手は6年目の八木裕。やはり三塁から外野へ転向して1年目だったが、ラッキーゾーンが撤去されたばかりの甲子園球場で、若き2人とともに鉄壁の外野陣を形成した。一方の内野でも、1年目の久慈照嘉が開幕から正遊撃手の座を確保。若武者たちの活躍が、快進撃の象徴となっていった。

 だが、本拠地が高校野球のため使えず、ビジターで戦い続ける夏の“死のロード”も勝ち越した阪神は、皮肉にも本拠地の甲子園球場で悲運に見舞われる。9月11日、首位のヤクルトとの直接対決で、同点で迎えた9回裏二死一塁、八木がサヨナラ本塁打。本塁を踏んだ八木は歓喜の輪に囲まれた。だが、ヤクルトの野村克也監督が抗議して、判定が覆ってエンタイトル二塁打に。普通の二塁打でもサヨナラの場面だったが、これで試合は延長戦に突入し、プロ野球記録を更新する6時間26分の死闘の末、引き分けに終わる。

 このような試合があると、流れが一変することも少なくないが、この引き分けを挟んで7連勝で、阪神は首位を独走した。しかし、そこから3勝10敗と大きく負け越し。最終的には巨人と同率で2位に終わった。

暗黒時代に育った21世紀のV戦士



 この92年の躍進は、阪神が、そして虎党が見た束の間の夢だった。翌93年から2年連続4位、その後は97年の5位を挟んで、2年連続、3年連続の最下位。ただ、この間に頭角を現した新たな若武者が、21世紀の戦力となっていく。

 96年に22本塁打を放ってブレークしたのが桧山進次郎だ。和田がプロ野球記録を更新する開幕21試合連続安打で始まった翌97年には、桧山は新庄とともに20本塁打をクリアも、100三振も突破。チーム1000三振という不本意な新記録も生んだ。

 続く98年にブレークした一、二番コンビが新人の坪井智哉、2年目の今岡誠で、坪井は2リーグ制の新人記録を更新する打率.327。加えて、中日で控え捕手だった矢野輝弘は阪神1年目にして正捕手の座を確保した。その翌99年にはヤクルトの監督を退任したばかりの野村監督が就任。結果にはつながらなかったが、新庄を投手との“二刀流”に挑戦させるなど話題も豊富で、新庄は実戦登板こそなかったものの、6月に敬遠球をサヨナラ打にする離れ業でファンを沸かせた。

 故障が続いた亀山は97年オフに現役を引退。21世紀に新庄はメジャーを目指し、ベテランとなっていた和田は指導者に転じたが、阪神は2003年に18年ぶりのリーグ優勝を果たす。坪井は日本ハムへ移籍した一方、久慈は中日から復帰。八木は“代打の神様”として、桧山は主に四番打者として優勝に貢献し、王座奪還の05年に打点王となったのが今岡だった。

写真=BBM
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