サブマリンは大舞台で輝く
ボールは上から投げたほうが速いに決まっている。制球だって安定するはずだ。
それをあえて下から投げる。
前提からしてアンダースローは異質な存在だ。
以前の取材で、元阪急・
山田久志氏がこう話していたことがある。
「アンダーハンド(アンダースロー)は自分で投げて、つくって、練り上げていく投げ方なんです。オーバーハンドには投げ方にある程度決まりがあって、だから投げ方が同じピッチャーが多いでしょ。でも、アンダーハンドで同じ投げ方をするピッチャーはまずいない。フォームもリリースポイントも、その人によって違う。自分で覚えて、自分で決めるんです。自分の感覚でしか決められないんです」
アンダースローでは史上最多、通算284勝を挙げた山田氏は、漫画『ドカベン』の里中智のモデルともなった美しくも力強いフォームでファンを魅了した方だ。
米球界の関係者からは「ミスター・サブマリン」と言われていたという。
確かにアンダースローといってもいろいろだ。地面ぎりぎりからのリリース、サイド気味の腕の軌道、体の軸も真っすぐ立っているか、傾くか……。
ただ、大雑把ながら、共通するキーワードはある。
「自分のリズムがある」。そして、「大舞台に強い」だ。
今回のプレミア12で投手陣のキーマンの一人に挙げられるのが、ソフトバンクの2年目、12勝を挙げた高橋礼だ。現在、日本のアンダースローの第一人者と言っていいだろう。
本日発売の「週刊ベースボール」で、日本一決定直後の高橋に取材したインタビューを巻頭から掲載している。
対
巨人日本シリーズでは第2戦(ヤフオクドーム)に先発し、勝利投手となり、試合後、「大きな舞台で注目される中で、アンダースローはこういうものと見せられてよかった」と話し、自身のスタイルへの、強いこだわりを感じさせた。
彼もまた、前述の2つのキーワードを共有する男だ。
日本シリーズは、内容もとんでもなく素晴らしかった。
7回二死まで無安打無失点。結局、7回1安打無失点で交代となったが、最速は140キロも、シンカーとテンポの早い独特の投球で、試合を完全に支配していた。
テンポの早さは、先輩のアンダースロー、元
ロッテの
渡辺俊介、
西武にいた
牧田和久を思い出させるも、188センチの長身は、過去を振り返っても比べる存在はない。
少し歴史も振り返ってみる。
かつてアンダースローは、各球団に複数人いた。中には、高校時代、同タイプがチーム内にいたことで転向させられたという選手も少なくなかった。
1990年代以降、右投げ左打ちが一気に増えたが、その前は、どのチームも左打者は2、3人というところか。
そんな時代の中で、アンダースロー自体が「対右打者」に特化し、進化したものでもあった。
右打者の背中方向からリリースされ、オーバースローとはまったく違う、浮き上がるような軌道でボールが来る。
どうしたって右打者は体が開き、しかも目線が下から上に動く。
ただ、だ。逆に言えば、左打者に対しては腕、球の軌道が見やすいフォームでもある。左バッターが増えるにつれ、アンダースロー投手が減ったのも必然と言える。
90年代、いわば“潜航”時代にもいなかったわけではない。
ヤクルトの守護神・
高津臣吾は、魔球シンカーを武器に日本シリーズで11試合に投げ、2勝8セーブで防御率0.00と完璧に抑え込んでいる。
ただ、高津の場合、どちらかと言えば、サイド気味でもあった。
リアル・アンダースローの復権は、2005年にブレークしたロッテの渡辺俊介だろう。史上最低空とも言われたリリースポイントで、球自体は遅く、変化球も極端な変化をするわけでないのだが、同じフォームからの緩急の付け方が絶妙だった。
その後、西武・牧田和久がリリーフとして台頭し、海を渡った。
アンダースローの利点として、打者の不慣れがある。数が少ないということは、当然、打者の対戦経験も少なく、慣れるに時間がかかり、日米野球や、違ったリーグの対決である日本シリーズではジョーカー(切り札)となることが多い。
例を挙げていくなら、古くは、日米野球で完投勝利もマークしている巨人・
大友工だ。53年、南海との日本シリーズで2勝を挙げ、日本一に貢献。サイド気味ではあったが、大洋が4連勝を飾った60年日本シリーズで全試合に投げ、2勝を挙げた大洋・
秋山登もいる。
球団別ではチーム内に先発で二枚そろっていたのが、山田がいた阪急だ。
若手時代から力押しだった山田と好対照に、シンカーを武器にかわすベテランの
足立光宏がいた。もちろん、足立も最初からベテランだったわけではなく、若手時代は、ほぼ真っすぐだけで押した時代もあったというが、印象は阪急黄金時代にあったベテラン期のほうが強い。
山田は自身と足立の違いについて「手首を立てて投げるかどうか」だと言っていた。手首を寝かす足立は、スピードこそ出づらいが、シンカーが落ちやすいという。山田は、自分のフォームのままシンカーを投げるために、フォークのようにボールをはさむなど、いくつかのパターンを生み出し、勝負球とした。
巨人のV9と重なったこともあり、日本シリーズでは6勝9敗の山田には、負け試合ながら忘れられない名勝負もある。
71年巨人との日本シリーズ3戦目だ。完璧なピッチングで1対0のまま9回裏二死となるも、
王貞治にサヨナラ3ランを浴び、マウンドでうずくまった。
対して足立は「日本シリーズ男」と言われた。
日本シリーズ通算26試合登板で9勝5敗。防御率自体は大したことがないのだが、ここぞのときに締めた。
語り継がれるのが、76年対巨人日本シリーズ第7戦だ。巨人は3連敗から3連勝、しかも第6戦は0対7からの逆転サヨナラ勝ちだ。
異様なまでの熱気に包まれていた第7戦の舞台、後楽園。ここで先発したのが足立だ。彼は巨人への大声援を耳にしながら「騒ぐなら騒げ」と淡々と投げ、2失点完投で胴上げ投手になっている。
以前、足立に話を聞いた際、巨人の看板であるON、王貞治、
長嶋茂雄との対戦について、こう言っていた。
「76年はもうONも1人だけやったから楽よ(長嶋は監督)。全部フォアボールで出せばいい。それがダメなら5の力で投げればいい。10の力、12の力で投げるから悪いんや。ホームランさえ、打たれなええと、『あんたが大将』と思って投げりゃいい(笑)。ほかはみんな並みのバッターや。そっちで勝負したほうが楽に決まっている」
では、締め。ここまで歴代屈指の偉大なアンダースローに触れなかったのは、最後に使いたかったからだ。
ソフトバンクの前身、南海の
杉浦忠である。彼が伝説になったのは59年。当時、杉浦は立大からプロ入り2年目、ソフトバンクの高橋も専大から入団2年目と共通点もある。
杉浦は外角と思い、左打者が踏み込んでスイングした球が腹に当たったという横のカーブもあったが、主体は真っすぐだ。「右打者インハイが生命線。うぬぼれていたかもしれないが、きちんと決まれば打たれたことはない」とも言っていた。
59年、対巨人との日本シリーズでは、第1戦でできた血マメが2戦目で破れたが、それでも連投。日本一を決めた4戦目は完封だった。
南海が4戦全勝で日本一を決めたシリーズだが、杉浦は、そのすべてで勝利投手になっている。
4戦目の後、記者に囲まれた際、「ひとりで泣きたい」と話したという逸話もあるが、本人は「さあ、言ったような言わないような」と静かな笑顔で話していた。
杉浦は、同年のレギュラーシーズンで69試合に投げ38勝4敗、防御率1.40。うち完投は19で、完封9だ。当時はセのみが対象だった沢村賞だが、こんな男がいれば、選考委員も迷うことはあるまい。
(2019年日本シリーズ決算号より抜粋、加筆)