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プロ野球20世紀の男たち

飯島滋弥&大杉勝男「天才肌の師匠とロマンチストの弟子。もっとも艶やかな打撃開眼の瞬間」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「スギ、あの月に向かって打て!」


東映・大杉勝男


 視力と右ヒザが悪かったことで軍隊に召集されずに済んだ。1945年8月15日、終戦。その1週間前に敗戦を漏れ聞いていた飯島滋弥は、

「これからは必ず、野球の時代が来る」

 と、ふたたび体を鍛えはじめた。甲子園でも東京六大学でも活躍していたが、セネタースへ入団した46年は26歳になっていた。セネタースとは、現在の日本ハム。それまでに、東急、大映と合併して急映、また分離して東急と紆余曲折を経て、東映フライヤーズに落ち着いたのは54年のことだった。

 飯島は1年目から主将を任され、中軸としてチームを引っ張ったが、気難しい面もあってフロントと衝突、48年7月に解雇されて金星へ。ただ、この時期は移籍が禁止されており、このチームを急映から分離した大映が買収したことで一軍へ上がり、翌49年には25本塁打。2リーグ分立の50年には27本塁打、リーグ6位の打率.322と真価を発揮する。

 天才肌で調子に波があり、打ちだしたら止まらなかった。51年のシーズン最終戦、10月5日の阪急戦(大須)では、1回表に満塁弾、7回表にも満塁弾、そして3ランを放ってイニング7打点、ゲーム11打点。ゲーム最多満塁本塁打、イニング最多打点、ゲーム最多打点は、2019年のシーズンが終わった現在でも更新する打者は現れていない。翌52年には打率.336で首位打者。豪快な打撃も魅力だったが、そのベースには優れた技術があった。

 55年の1年だけ南海でプレーして現役を引退した飯島が、東映となった古巣へ打撃コーチとして復帰したのが67年のことだった。そこにいたのが、3年目を迎えた大杉勝男。テスト入団で、打撃コーチを務めていた、かつての“ミスター・タイガース”藤村富美男に見出され、水原茂監督の“秘蔵っ子”として鍛えられながらも、芽が出ないまま打撃に悩み苦しんでいた。

 天才肌で気難しく、わがままとも言われた飯島と、のちに無数の武勇伝を残した大杉の、地道な二人三脚が始まる。ウエートの移動やリズムの重要性を説く飯島だったが、大杉の打撃は余計な力が入り、縮こまったままだった。

 そんな、ある夜。後楽園球場でのナイターだった。左中間スタンドの上空には、月。打席に向かう大杉に、一塁コーチの飯島が駆け寄る。

「スギ、あの月に向かって打て!」

 このロマンチックな言葉が、ロマンチストの心に、じんわりと沁みていった。もともとの持ち味は、すくうようなV字型のアッパースイング。この一言で、大杉は真価を発揮していく。それまでの飯島の指導も、面白いようにつながっていった。70年には4月に西鉄のボレスと乱闘、一発でKOしたが「パンチが速すぎて見えなかった」と退場にならず。腕っぷしの伝説も幕を開けたが、8月に飯島は死去。大杉は初の本塁打王、打点王で打撃2冠に輝き、「オヤジさん」と慕った師匠に捧げた。

「みなさまの夢の中で……」


 大杉は翌71年に2年連続で本塁打王、その翌72年には2度目の打点王となったが、東映が日拓を経て日本ハムとなると放出され、75年にヤクルトへ。巨人王貞治を指導したことで知られる荒川博監督に師事するも、そのダウンスイングが合わず低迷する。

 引退も頭をよぎったが、ふたたび「月に向かって」打つようになって復活を遂げた。78年には初優勝に貢献。阪急との日本シリーズでは第7戦(後楽園)の6回裏に放った左翼ポール上空への本塁打が1時間19分の抗議を呼んだが、8回裏に迎えた次の打席では文句なしの本塁打で日本一の立役者となり、MVPに輝いている。

 プロ17年目の81年には通算2000安打にも到達し、キャリアハイの打率.343。83年にはプロ野球で初の両リーグ1000安打の快挙を成し遂げたが、パ・リーグ287本塁打、セ・リーグ199本塁打で、両リーグ200本塁打はならず。引退セレモニーでは、

「(あと1本を)みなさまの夢の中で打たせていただければ、これに勝る幸せはありません」

 そのアーチの彼方には、きれいな月が浮かんでいたのではないだろうか。

写真=BBM
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