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平成助っ人賛歌

ヤクルトV2に貢献、“恐怖の八番”ミミズ男・ハドラー騒動とは?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

NPB助っ人史に残る事件!?


ヤクルト・ハドラー


「年を追うごとに薄れていく存在感。清原和博西武)&桑田真澄巨人)の苦悩の日々……」

 1993年(平成5年)の雑誌を見るとそんな厳しい見出しの論調が目立つ。80年代中盤に10代でニューヒーローとなった“KKコンビ”も当時プロ8年目、清原は次第に“無冠の帝王”と指摘され、桑田は度重なるスキャンダルに見舞われ8勝15敗と大きく負け越し。『週刊ベースボール』でも「スーパースターへの階段を2段飛ばしくらいのスピードで駆け上がっていたのに、今はスターの段階で迷走中」なんて記事が確認できる。この年は松井秀喜(巨人)がデビュー、伊藤智仁(ヤクルト)や杉山賢人(西武)といったルーキーたちの活躍も話題となったが、93年の球界でプレー以外に大きな話題を集めた助っ人選手がいたのを覚えているだろうか?

 ヤクルトのレックス・ハドラーである。念のため断っておくが、同年夏に公開され、いろいろと物議を醸した安達祐実主演の映画『REX 恐竜物語』とは一切関係ない。ハドラーはあの通算1436安打の名外国人選手レオン・リーの紹介で、92年秋の宮崎・西都キャンプにテスト生として来日。元ヤンキースドラフト1位という経歴の持ち主で“ハリケーン”と呼ばれる激しいプレーが持ち味も、当時すでに32歳。メジャー時代は複数球団を渡り歩く控え内野手で、常時出場機会を求めてのチャレンジだった。その動向は当初まったくニュースになることはなかったが、93年3月10日、NPB助っ人史に残る事件が起きる。

 その日、神宮球場でのオープン戦が開始直前に雨天中止となり、一塁側ベンチのヤクルトナインは手持ちぶさたにしていた。そこに突然現れたハドラーは、なぜかミミズを数匹手にしている。同僚のジャック・ハウエルが「こいつを食ってみな」なんてけしかけたお遊びだ。当時の週ベ『オープン戦93熱球便』にも「ID野球もかなわない!?“ヘンな外人”を地でいく新助っ人・ハドラーの奇行」とまるで『週刊プロレス』の謎のアメリカ人レスラーを追うようなテンションでこの衝撃の様子が詳しくリポートされている。

「なんと米国ではセミを食べたことがあるというハドラー。ナインの1人2000円の声に、気をよくし、生のままミミズを食べてしまったのだ。飲みこんだわけではない。ムシャムシャと、時には口をあけて“経過報告”までする念の入りよう」

 現代ならコンプライアンス的にいろいろとアウトな気が……というのは置いといて、記者の前で食後につまようじで歯の掃除をしながらハドラーはこんなコメントを残している。

「グッド・プロテイン(いいタンパク質)。アメリカのミミズはちょっと酸っぱいけれど、日本のはおいしいよ。ゴキブリだけは食べないよ。雑菌があるし、食べて死んだ話も聞いたことがあるからね」

勝負強い打撃で増やした出番


試合でヒーローとなり、夫人と熱いキスをかわす


 もはやリアル『美味しんぼ』のようななんだかよく分からないコメントとキャラ設定で、本人は軽いおふざけのつもりだったらしいが、この様子は各メディアで大きく報じられちょっとした騒ぎとなる。なお当時のヤクルトを率いるのは野村克也監督である。こういうパフォーマンスは嫌うんじゃ……と周囲は心配したが、ハドラーは開幕の広島戦に「七番・二塁」で先発出場すると、平凡なフライを落球して失点のきっかけに。これにはノムさんも「ハワードはイージーミスだ。雑なことをやるとは思っていたが……」なんてさりげなく怒りの名将に「ハワード」と名前を間違えられる悲劇。完全な一発屋ネタ枠の助っ人と多くのファンも覚悟したが、ハワード……じゃなくてハドラーは徐々に勝負強い打撃で出番を増やしていく。

 5月19日の広島戦(神宮)は17対16という大乱戦で、午前0時を過ぎた延長14回裏に来日初のサヨナラ打でピリオドを打ち、チームが初の首位に立った5月23日の中日戦(ナゴヤ)は5打数5安打5打点の大爆発。同29日の横浜戦(千葉マリン)でも4打数4安打3打点の固め打ち。CDを出している歌手のジェニファー夫人との熱いキスも話題に。二塁守備は相変わらず不安定だったが、三番と四番と九番以外の打順をすべて経験する使い勝手の良さは重宝され、6月1日には打率.319まで上げ、一時首位打者争いでリーグ2位にまで浮上する。

 刺身、しゃぶしゃぶ、焼き肉といった日本食を絶賛し、選手をリスペクトする日本のファン気質も大好きだと語る異端の助っ人ハドラー。チームメートの荒井幸雄の大相撲観戦に同行したり、大橋穣守備走塁コーチに弟子入り志願したりと、泥臭く今いる環境に適応しようとした背番号49は終わってみれば、120試合、打率.300、14本塁打、64打点、OPS.838という好成績を残す。得点圏打率はリーグトップの“恐怖の八番打者”としてチームのV2と15年ぶりの日本一に貢献。春先は名前すら覚えていなかったノムさんも「ボーンヘッドも多いけど、あの明るさはウチに必要なのかもしれんな」と称賛した。

日本一に貢献も1年で退団


93年、日本一の祝勝会でプールへ飛び込み、ハウエル(右)と喜びを分かち合う


 しかし、だ。結局、守備面が問題視され1年限りで退団。メジャー復帰すると、エンゼルス時代の96年には36歳で日米を通じてキャリアハイの16本塁打を放ち、日本のファンを驚かせた。一軍外国人登録数が今とは異なり評価基準もシビアだったが、もう少しNPBで見たかった助っ人のひとりだ。当時の週刊誌は外国人選手に直撃取材して、日本球界に対する不満を引き出し記事にするという伝統芸があったが、ハドラーはヤクルト退団後も一貫して愚痴や文句は言わず、起用してくれた野村監督と温かく受け入れてくれた日本のファンへの感謝を口にしていることも付け加えておきたい。

 最後に世を騒がせた“ミミズ男”誕生のきっかけを、『週刊ベースボール』93年5月10&17日号の独占インタビューで本人が告白しているので紹介しよう。

「子供の時に家にいたミミズやカタツムリを母親が気持ち悪がって『どこかへ捨ててくれ』と頼むんだ。捨てるのももったいなくてかわいそうだったので食べちゃった(笑)。それがすべての始まりだったのさ。(ヘビも食べるかと聞かれ)料理すれば、食べるよ。あとチキンに味が似ているワニもおいしい。(スワローズで)共食いになってしまう? が、ツバメの巣もトライしたいと思ってるんだ(笑)」

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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