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プロ野球20世紀の男たち

竹之内雅史&東田正義「“黒い霧”の中で輝いた“トンタケ”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

終焉の近づく西鉄で


太平洋クラブ・竹之内雅史


 さかのぼること半世紀。1969年、シーズン閉幕も控えた10月に発覚したのが“黒い霧事件”だった。暴力団によってプロ野球が賭博の対象とされるようになったのは戦前にさかのぼるとされるが、それに選手も加担して、公式戦で敗退行為、つまり八百長をしたという疑惑だ。

 50年代に九州で黄金期を築いた西鉄は、その“黒い霧”に覆われ、72年オフには太平洋クラブへ球団の譲渡、太平洋も76年オフにはクラウンライターへ球団を譲渡……。どん底の“九州ライオンズ”だったが、そんなチームにあって、ひときわ輝いた2人のスラッガーがいた。1人は竹之内雅史、もう1人は東田正義。東田がドラフト2位、竹之内はドラフト3位で指名され、68年に西鉄へ。同じ右打者で、西鉄では四番の座を争った2人だったが、社会人でプレーしていた頃から交流があり、竹之内のいた日本通運に三重交通の東田が補強されて、クリーンアップを組んだこともあった。

「仲よかったよ。(東田は)きれい好きでさ、朝晩、寮の部屋を掃除するんだ。けど、俺がしねぇもんだから、とうとうしなくなっちゃった」

 と、竹之内は笑って振り返る。

 一方、“黒い霧”に覆われた西鉄は、

「チャンスだけは、いっぱいあった」

 と東田。ともに1年目から即戦力となるも、荒削りで、安定感は欠いたが、よく飛ばした。2年目の69年に竹之内は初のリーグ最多死球、東田は90試合の出場ながら18本塁打を放ち、“トンタケ・コンビ”と呼ばれて人気を集める。

 体だけでなく気も強かった竹之内は、プロの先輩でもある南海の野村克也に「おい特攻隊、当たらんようにせい」と“ささやかれ”、

「うるせえ、おっさん」

 と言い返したこともあったというが、71年まで3年連続の死球王。ヤマを張って踏み込むタイプではなかったにもかかわらず、とにかく、ぶつけられた。その71年は54試合の出場で、リーグ最多の14死球。手首やヒジの関節部への死球でなければ痛くなかったとはいうものの、さすがに故障にはつながった。

 一方の東田は、その71年に自己最多の23本塁打。広角に打ち分ける長打が持ち味で、

「もともと右に長いのが打てるタイプでした」

 と東田は胸を張る。右打者ながら左腕は得意ではなかったが、サブマリンは得意だった。

「いつもバッティングは悩んでいました」

 と東田が振り返るが、それは竹之内も同様。そして、試行錯誤している姿が、これほどまでに誰の目にも明らかだった打者は、ほかにはいない。

「しょっちゅうフォームは変えてたね。なんでかって? ヘタクソやからさ(笑)。夜バットを振って、翌日の練習でやってみて、打ってみて悪くなかったらゲームで使う。その繰り返し。しょっちゅう変えてたから、『また違うやないか!』ってヤジられてたもんね(笑)」

ともに阪神でラストシーン


西鉄・東田正義


 監督やコーチではなく、フロントに打撃を指摘されて出場機会を減らすことになった東田は、西鉄へ入団したときに兼任監督として指揮を執っていた中西太監督の率いる日本ハムへ75年に移籍。竹之内の残る太平洋に強く、

「打ちまくりました。ほかの試合では疲れて結果が出なかったくらい。太平洋ファンから『ぶつけろ!』と言われたときは腹が立って怒鳴り返した。『好きで出たわけじゃない!』って」

 と東田。だが、中西監督が退任したことで、翌76年には阪神へ。移籍1年目は重用されたが、その翌77年オフ、吉田義男監督との確執もあって現役引退。まだ32歳だったが、

「まあ、自分が悪いということです」

 と東田。その阪神へ竹之内が移籍してきたのが79年だった。開幕から四番を務めて25本塁打を放ち、2ケタ死球も11年連続に。だが、翌80年シーズン途中に中西監督となると出番が減り、81年には死球で右手を骨折。

「握力が25キロに。これで、もうアカン」

 と、82年オフに現役を引退した。通算310四球と、打席数で考えると、“四球率”の少なさは白眉。一方で、通算166死球はプロ野球2位だが、その“死球率”はズバ抜けている。

写真=BBM
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