プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 低迷チームの“沖縄の星”vs.V9の“ON”
2019年に2年連続2度目の本塁打王となった
西武の
山川穂高は沖縄県の出身。20世紀の打者では、90年に打点王に輝いた
オリックスの
石嶺和彦も同様。投手では1年目の88年に投げまくって
中日の優勝に貢献した
上原晃が“沖縄の星”と呼ばれたのも印象に新しい。
沖縄が“国内”であることは、今や当たり前のことになっているが、20世紀には“外国”だった時期もあった。現在でも、例えば、東京で生まれ育った人が沖縄へ行けば、沖縄ならではの歴史に連なる独特な文化と出会うことになるが、かつて琉球と呼ばれていた沖縄が“国内”になったのは近世に入ってからで、それ以前は独立した国家だったのだが、その意味での“外国”ではない。戦後はアメリカの占領下に置かれ、若い人には想像しづらいだろうが、東京と沖縄を行き来するにはパスポートが必要で、沖縄へ行けば車が右側を走っていた時代があったのだ。
いわゆる本土復帰を前に、沖縄県から甲子園へ“初出場”を果たしたのが1958年の夏。出場した首里高は初戦で敗れ、持ち帰った甲子園の土は検疫の観点から海へ捨てられたという。そんな時代の、62年の夏。沖縄高のエースとして甲子園を沸かせたのが安仁屋宗八だった。
その後、琉球煙草を経て64年に広島へ。沖縄は“安仁屋フィーバー”に沸いた。その64年は
巨人の
王貞治が55本塁打を放ったシーズン。翌65年から巨人のV9が始まる。一方、当時の広島は低迷期。沖縄からやってきた男は、どん底のチームで、強気な投球を武器に、頂点を極めた最強チームに立ち向かっていく。
1年目から救援を中心に38試合に登板して“沖縄県勢”初勝利を含む3勝。プロ3年目、V9の2年目でもある66年には7月31日の巨人戦ダブルヘッダー第1試合(広島市民)に先発すると、28人の打者を無安打無得点に抑える快投を見せる。29人目の
黒江透修に打たれたことで快挙は逃したが、そのまま完封勝利。68年には一気に飛躍し、自己最多の23勝を挙げたが、その23勝目も巨人から奪っている。
「ぶつけてもいいくらいの気持ちで投げた。それくらいでないと巨人は抑えられない」
当時の巨人でクリーンアップを形成していたのは王と
長嶋茂雄の“ON砲”。王に対しては、
「打たれても仕方ないと思いっきり行けた。一本足のヒザあたりを狙ったスライダーでファウルを打たせてカウントを稼いだ。(通算53四球のうち)逃げた四球は1度もない」
だが、一方の長嶋には、「これは打てんよ」と言われた
シュートを続けて投げたところ、体を開いて狙い打ちされたこともあった。
「丁々発止の人でしたね。ランナーを背負った場面ではイヤなバッターでした」
阪神1年目に初タイトル
ただ、実は小さいころから巨人、特に“悲運のエース”
藤田元司のファンだったという。故郷の沖縄で中継されるプロ野球の試合は巨人戦のみ。遠い故郷で活躍を見守ってくれている両親のために、巨人戦で闘志を燃やしたのだ。
68年から3年連続2ケタ勝利。だが、70年オフに痛風を発症したこともあって精彩を欠き、コーチとして来日したルーツとも衝突、ルーツが監督に就任した75年に
阪神へ移籍すると、すべて救援のマウンドながら、完全復活を遂げる。66試合に登板して規定投球回にも到達、12勝、防御率1.91で最優秀防御率に輝き、カムバック賞も贈られた。
以降2年連続で2ケタ勝利に到達したが、その阪神でも
ブレイザー監督となると戦力外となり、80年に広島へ復帰する。しかし、今度は十二指腸潰瘍を発症して手術、全治2カ月と出遅れ、そのまま結果を残せず、翌81年オフに現役を引退した。酒豪としても知られ、二日酔いで練習に参加することも日常茶飯事だったという。
元祖“沖縄の星”といえる右腕だが、沖縄県の出身で最初のプロ野球選手は51年に東急へ入団した、同じく右腕の
金城政夫。台湾の高雄商では先輩にあたる
大下弘とチームメートになり、大下を追うように、その9日後に西鉄へ移籍したが、通算5試合の登板にとどまり、白星を挙げられないまま引退している。
写真=BBM