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プロ野球20世紀の男たち

榎本喜八「打撃の道を究めた天才の孤独と孤高」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

一流こそが認めた男


東京・榎本喜八


 早実高からプロへ進んだ左打者といえば、多くが通算868本塁打を残した巨人王貞治を思い浮かべるだろう。誰もが天才と口をそろえた左打者なら、近年では広島前田智徳だろうか。だが、彼らよりも前に、そんな左打者がいた。榎本喜八。この男と戦った多くの一流選手が、この男については畏敬の念を持って語る。

 一流こそが認める天才。心技体、そのすべてで打撃を究めようとした男だ。ボール球には決して手を出さず、きわどい球を見送ってストライクと判定されると、「3センチ外れてるよ」と球審にボソリ。このときマスクをかぶっていた南海の野村克也の証言だ。そして、捕球した自分の感覚と同じだったことに驚いたという。

 母親が早くに亡くなり、出征した父親はシベリアに抑留されて、貧困の中にあった少年期。最初は投手だったが、中学から外野手になった。早実高では甲子園出場3度。だが、コーチに従わず自らの打撃を貫いたこともあってか、プロからの誘いはなかった。早実高の先輩で、早大から毎日への入団が決まっていた荒川博に頼み込んでテストを受け、毎日へ。その打撃は別当薫監督に評価され、背番号3を与えられる。

 この埋もれかけた若者の才能をプロの道へ導いたのも、のちに王の師匠となる荒川に、戦後の本塁打ブームを引っ張った別当と、やはり一流の男たちだった。1年目の1955年オープン戦から結果を出し、開幕戦では五番打者。そのまま一塁の定位置を維持して新人王に輝いた。だが、打率3割の壁は、なかなか超えられず。転機はチームが大毎となった58年オフ、荒川の紹介で合気道や居合の世界に触れたことだった。

「打撃は型じゃない。無の心境が重要」「バットを自分の腕のように振る」「心が正しくないと野球はうまくならない」「自分の中にボールを引き込み、腹の中でバックスイングをする」……。

 自らの打撃を表現する言葉も独特だ。だが、その打撃は、現在の打撃論と遠いものでもない。まず、肩甲骨を開いてワキを締め、グリップは右肩よりも高い位置に。バックスイングは腹の中、つまり、目に見えた動きとしては、ほとんどなかった。いかにムダな動きをなくし、力を抜くかを試行錯誤した結果だ。意識は下腹部の奥、臍下丹田に軸を置き、下から回転して力をバットに伝えていく。スイングの際に体は反っているが、ほとんど頭の位置は動かなかった。おそらくは、自然体の構えでボールを引き付け、反動ではなく、下半身主導でインナーマッスルを使ってスイングするイメージだったのだろう。

最年少31歳7カ月で通算2000安打も


 初めて打率3割を突破したのが60年で、打率.344で初の首位打者となって大毎のリーグ優勝に貢献。以降、3年連続でリーグ最多安打を放つ。チームが東京となった64年からは2年連続で打率3割に届かなかったが、66年にはキャリアハイの打率.351で2度目の戴冠。4度目のリーグ最多安打、自己最多の24本塁打も放ったシーズンだが、極端なまでの求道的な姿勢で周囲から誤解されることも少なくなかった。

 日米野球ではベンチで座禅を組んで、ちょっとした騒動に発展。のちに聞かれると、「腰が痛くて、あれが一番、楽だった」と語っている。人付き合いもヘタで、口数も少なかったが、決して暗いタイプではなかった。

 68年7月21日の近鉄戦ダブルヘッダー第1試合(東京)で通算2000安打に到達。プロ野球3人目、現在でも最年少の31歳7カ月での達成だった。だが、その第2試合では守備中のクロスプレーを発端に両チームが乱闘。このときバットで殴られ、昏倒する。快挙を祝福されるべき男を見舞ったのは悪夢だった。

 そして、チームがロッテとなった69年から成績が失速すると、ストイックすぎる性格もあってチームから孤立していく。71年オフに西鉄へ。「こんなポンコツを拾ってくれた西鉄に恩返しをしたい」と奮起を誓ったもののも、右足痛で真価を発揮できず、「お役に立てず申し訳ありません」と1年で自ら退団、引退していった。

 その後はユニフォームを着ることはなかった。それでも、指導者としての復帰に備えて、日々の鍛錬を欠かすことはなかったという。

写真=BBM
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