プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 「チームが勝たなければ意味がない」
幼少期は気管支が弱く、体育の授業も、すべて見学だったという。それが、家計を助けるために始めた新聞配達で、みるみる頑丈になっていった。八幡製鉄の外野手だった父から野球の手ほどきを受け、中学から捕手。熊本商高では四番も打った。その後は社会人の日鉄二瀬へ。1リーグ時代に選手として活躍し、のちにプロの2チームでも監督を務めた
濃人渉がスパルタ指導で鍛え上げていたチームだ。それに加えて、
「正月もバットスイングを欠かしたことはない」
と語るように、さらに自らを鍛え上げた。少しでも高い契約金でプロへ進みたいと考えたからだ。すでに、ほとんどの給料を仕送りしていた。
「自分は高校まで。3人の弟は大学を出したい」
昭和の昔、こんなエピソードは多かった。ただ、この境遇が、のちに“闘将”とも呼ばれた江藤慎一の闘志を育んだことは想像に難くない。
1959年に中日へ。
杉下茂監督に打撃を評価され、オープン戦から抜擢されたが、守備の安定感を欠く。そこで一塁も守れることを訴えて、引退する
西沢道夫の後釜に収まった。以降6年連続で全試合に出場。一塁へのヘッドスライディングなど、闘志あふれる果敢なプレーで沸かせた。63年8月25日の
巨人戦(中日)では、同点で迎えた7回に雨で試合が中断。自身は2打席連続本塁打を放っており、
コールドとなっても試合は成立する場面だ。だが、守備位置から動かず、試合の続行をアピールした。
「チームが勝たなければ意味がない」
試合は引き分けのままコールドとなったが、その姿にファンは魅了された。もちろん、バットでも活躍。翌64年から2年連続で巨人の
王貞治と首位打者を争う。64年は王が55本塁打を放ち、初めて三冠王に迫ったシーズンだが、打率.323で戴冠。ただ、終盤は左太もも肉離れで途中交代が多かったことで、
「わざと休んでタイトルを獲ったとか、ずいぶん陰口を言われた。こんな屈辱はない」
と、続く65年は4月に初めて欠場したものの、そこから最後までキッチリ出場して、打率.336で王の三冠王を2年連続で阻んだ。
「王だけに3つ獲らせるのはバットマンの恥だ」
と語りながらも、その一方では、
「だいたい、そんなもの(タイトル)欲しそうなこと言えますか。親に申し訳ないよ」
と笑う。そんな男くさい雰囲気も人気を集めた。
だが、69年に就任した
水原茂監督と衝突を繰り返す。オフにトレード通告を受けたが、
「やめるならドラゴンズでやめたい」
と、拒否。自由契約も認められず、引退に追い込まれる。このとき、手を差しのべたのが
ロッテの監督となっていた濃人だった。
「闘志にスランプなし!」
いったん中日へ復帰してから移籍、という形で70年6月にロッテで復帰すると、初めて規定打席には届かなかったが、チームのリーグ優勝に貢献する。これがキャリア唯一の優勝でもあった。翌71年にはキャリアハイの打率.337で首位打者に。プロ野球で初めての両リーグ首位打者だったが、タイトルが確定した日、大洋へのトレードを通告される。濃人は7月に放棄試合の責任を取らされて二軍監督に降格されており、“濃人派”として排除されたともいう。
大洋では3年間プレー。75年には太平洋へ移籍して兼任監督となり、“山賊野球”と呼ばれて人気に。打っても通算2000安打に加え、やはりプロ野球で初めての12球団本塁打の快挙。だが、オフに兼任コーチへの格下げを提示されて退団、
金田正一監督となっていたロッテで1年だけプレーして引退した。満身創痍だったが、
「闘志にスランプなし!」
と、最後まで自らを鼓舞し続けた。兄の支援で慶大を出て、プロに進んだ弟の省三は振り返る。
「不器用な人でした。あの性格は最後まで変わらなかった。引退してからはプロのユニフォームも着ていない。野球殿堂もそう。私生活がどうのと言われたけど、僕からすれば、もっと悪い奴が入ってる(笑)。やっと殿堂に入ったのが、死んでから2年。不遇でしたね。いろいろあったけど、兄貴がいたから僕がある。あの兄貴の弟で本当によかった。心からそう思います」
写真=BBM