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プロ野球20世紀の男たち

マーチン、モッカ、ゲーリー、パウエル、ゴメス、宣銅烈……「ファンに愛された竜の助っ人たち」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

優勝の使者となったマーチンとモッカ



 プロ野球の創設に参加した中日。当時の球団名は名古屋だったが、外国籍の白人選手を獲得した最初の球団でもあった。その1936年にいたのが、投手のノース、捕手のハリス、日系人で内野手の高橋吉雄ら3人。だが、春季はチームの全9試合のうち7試合で勝敗に絡んだノースは早々に退団、ハリスと高橋は翌37年にはイーグルスへ移籍していった。その後は長い間、外国人選手は不在。2リーグ制となって5年目の54年に飾った“涙の日本一”にも、助っ人の姿はなかった。転機は巨人から日系人の与那嶺要が移籍してきた61年だろう。与那嶺は2年で現役を引退したが、のちに監督となり、74年に巨人のV10を阻むことになる。

 そのVイヤーにいた外国人選手が2年目のウィリアム、そして来日1年目のマーチンだ。ウィリアムは前年にリーグ最多の95三振を喫するなど大味だったが、それは来日したばかりのマーチンも同様だった。しかも、キャンプの打撃練習ではボテボテの当たりを量産して低評価。だが、シーズンが開幕すると、一気に化ける。

 4月16日のヤクルト戦(中日)では3打席連続2ラン本塁打で一躍、脚光を浴びると、その後は四番打者に定着。日本人投手の変化球に苦しんだこともあり、本塁打か三振か、という大雑把な打撃は健在(?)だったが、打点はコンスタントに稼ぎ、最終的には35本塁打も放って、リーグ優勝に貢献する。

 黄金の口ヒゲと27歳での来日とは思えない薄めのヘアスタイル(?)がトレードマークで、それを気にしていたのか、一塁でヘルメットから帽子に替えるスピードは球界でも随一。外野守備も危なっかしく、攻守ともに不器用だったが、真面目で、とにかく全力でプレーする姿はファンに愛された。

 だが、初の全試合出場、本塁打と打点はチームトップだった78年オフに解雇。ファンからは球団に残留を求める投書が相次いだ。移籍した大洋でもチーム2冠ながら、1年で解雇。真面目な性格からスランプが長引く傾向もあったが、打ちだしたら止まらない爆発力も魅力だった。

 次のVイヤーとなった82年に入団したのがモッカだ。63年から65年まで中日でプレーし、ヘッドコーチとなっていたマーシャルに誘われて来日。マーチンとは対照的にシュアな打撃が武器だったが、マーチン以上に守備は危なっかしく、遊撃の宇野勝との三遊間は、しばしばファンの肝を凍らせた。

 ただ、それも“野武士野球”の魅力だったとも言える。バットでは終盤に優勝を争う巨人の江川卓を打ち崩し、ラストスパートの起爆剤に。85年9月に戦力外通告を受けたが、外国人選手としては異例の引退試合が催され、胴上げまでされている。その後も、たびたび監督の就任が噂されるなど、ファンの心に残り続けている助っ人だ。

人間味あふれる助っ人の系譜


中日・パウエル


 優勝の経験こそないが、モッカ以上にシュアな打撃を発揮したのがパウエルだった。来日3年目の94年から3年連続で首位打者に。人間味でも先輩たちに負けておらず、「野球人生を通じて、いや、それ以上に長い人生において、いろいろな人の役に立ちたい」と語り、星野仙一監督の鉄拳制裁には「殴るなら私を殴れ」と言ったことがあったとも。

 90年代は助っ人が急増した時代だったが、それは中日も例外ではなく、99年のリーグ優勝に貢献したのが、パウエルと1年だけチームメートとなったゴメスだ。勝負強い打撃に強打、さらには陽気な性格でチームを引っ張り、家庭の事情で2000年オフに帰国したが、翌01年に復帰すると、名古屋空港には約500人のファンが出迎えた。

 ただ、99年は韓国から来た男たちの活躍が目立ったVイヤーでもあった。リードオフマンとして打線を引っ張ったのが韓国から来た李鍾範。一方の投手陣でも、セットアッパーは長髪がトレードマークのサムソン・リーで、クローザーが“韓国の至宝”宣銅烈だった。李は21世紀までプレーを続けたが、その99年を最後に、宣はコーチ兼任の要請を「私は選手として日本に来ている」と固辞して帰国。サムソンはメジャーへと旅立っていった。

写真=BBM
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