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平成助っ人賛歌

イチロー登場前の球界を代表する“平成最初の安打製造機”パチョレック/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

年俸わずか2600万円の格安助っ人


1993年、球宴に出場した際、外国人選手と記念撮影(左からハウエル、ウインタースパチョレックオマリーブライアント


 1988年(昭和63年)10月29日、セガ・エンタープライゼスの『メガドライブ』が世に出た。

 ついにファミコンの8ビットゲーム機から、16ビットマシンの時代へ。漆黒のボディで金色に輝く「16-BIT」の文字は未来そのものだった。……しかし、今年夏に発売された『メガドライブミニ』収録の本体同時発売ソフト『スペースハリアー2』で遊んでみたら驚愕の難易度である。キャラ移動中に木にぶつかっただけで即死のめちゃくちゃシビアなゲームバランスから、当時の子どもたちは社会の理不尽さを学んだものだ。時はバブル絶頂期、ジャンプコミックス『こち亀』63巻では「東京土地なし派出所の巻」にて都心の地価高騰のあおりで立ち退きを迫られる派出所の様子を描いている。

 そんなバブルマネーで潤っていた日本にひとりの無名の外国人野球選手が来日する。ただ、当時流行りの有名絵画を買うように現役バリバリの大物大リーガーを連れてきたわけじゃない。メジャー通算23安打、2本塁打とほとんど実績のないマイナー・リーガーである。横浜大洋ホエールズと契約したジム・パチョレック、年俸はわずか2600万円の格安助っ人だ。日米大学野球では全米四番を務めたこともあり、ポーランド系の血を引く精悍な顔立ちに身長190センチ、93キロの立派な体躯で、スーパーマリオ似のカルロス・ポンセと並ぶ大砲候補と思いきや、キャンプから非力さを指摘され、評論家からは「バットが出にくそうなクラウチングスタイルの打法は日本で通用しない」なんてダメ出しを食らう日々。27歳の若くしての来日について、パチョレックは『週刊ベースボール』の直撃インタビューにこんな言葉を残している。

「若いのに、というかもしれないが、若いからこそ、いろいろなことを経験してみたくて日本に来た。それに3Aでの待遇よりも、日本で働いたほうがずっといい生活ができるからね」

 おおっ、転職時の面接で思わずパクりたくなる若者らしい前向きな発言である。5人兄弟の末っ子で、兄のジョンやトムは元大リーガーだ。そんな古き良きアメリカを象徴するかのような野球一家に育ち、パチョレックは3A時代にチーム最高の年間62四球、チーム2位の出塁率.397をマーク。外野に一塁と三塁を守れる便利屋のような立ち位置で、本塁打こそ毎年1ケタだったが、右への流し打ちやボールに食らいついていく姿勢とガッツあふれるプレーを大洋の牛込惟浩渉外担当に評価された。すると昭和最後のシーズンとなった88年の来日1年目から、度々打撃フォームを日本人投手用に変える研究熱心さを発揮し、正田耕三広島)や篠塚利夫巨人)と首位打者を争う活躍を見せる。

2年連続リーグ打率2位


広角に打ち分けるバッティングは絶品だった


 私生活では二人の息子にも恵まれた良きパパで、横浜スタジアムでのナイター前は大好物のラーメンを食べると試合直前まで誰もいないブルペンで横になりリラックス。それがいざゲームとなると炎のファイターへと変貌する。甲子園での阪神戦では、レフト守備時に自チームのセンター屋鋪要と激しく激突して途中退場も翌日のゲームはスタメン志願で3打数2安打。これには対戦相手の村山実監督も「あの闘志をウチの選手にも見習わせなきゃいかん」と脱帽した(この年の阪神はランディ・バースの途中退団や掛布雅之の引退もあり、首位中日と29.5ゲーム差の最下位)。大洋は4位に終わるが、パチョレックは最終的にリーグ2位の打率.332(165安打はセ最多)、17本塁打、76打点で外野部門のベストナインに選出され、ホームランと打点の二冠に輝いた同僚のポンセと組むクリーンアップは、球界屈指の助っ人コンビ・ゴールデンアックスと称賛された。

 2年目の89年も背番号14の“平成最初の安打製造機”は、打率.333と2年連続リーグ2位となるハイアベレージをマーク。しかし、大洋は首位巨人にプロ野球記録の18連敗を喫するなど勝率3割台で借金33のぶっちぎりの最下位に沈み、チーム本塁打76は12球団最少。こうなると、いくら高打率でも助っ人にしてはホームランが少なくて物足りないという声が聞こえてくるようになる。ウォーレン・クロマティ(巨人)や落合博満(中日)といった強打者たちと毎年首位打者争いをしながらも、今より一軍外国人枠も少ない当時の外国人スラッガーに求められていたのはあくまで長打だった。本人もそれを強く意識していたようで、3年目の90年春季キャンプでは休日も宿舎近くのスポーツクラブに通い、ウエートトレーニングでパワーアップに励む姿が度々目撃されている。

 そうパッキーは真面目だった。いつ何時も最後まであきらめず手を抜かない。90年8月4日の中日戦(横浜スタジアム)では、5対5のまま延長に入り、午後10時半には未成年者に帰宅を促すアナウンスが流れ、スクリーンには最終電車の時刻が映し出される。この年の開幕2日前に正式決定した「延長は15回まで、引き分けは再試合」という選手にはハードな超ガチンコルールのため、試合はひたすら続き延長15回裏、決着をつけるサヨナラ打を放ったのはパチョレックだった。『週刊プロ野球セ・パ誕生60年』によると、日付は変わり午前0時11分、最後までスタンドにいた観客は7198人だという。なおこの年の両チームの試合は事件が多く、9月11日のナゴヤ球場では試合前のシートノック中にスコアボード右の照明塔付近から小火が発生。外野席の観客が一時グラウンドに避難して、一部のファンが中日ベンチになだれこむ騒ぎもあった。

“PKO問題”によって……


92年からは阪神へ。真面目なプレースタイルは若手のお手本となった


 そんな中でパチョレックは90年にキャリアハイの172安打を放ち、打率.326で自身初の首位打者を獲得。チーム7年ぶりのAクラスの原動力となる。91年も打率.310、11本塁打、75打点と4年連続3割を達成したが、ついにホームランの少なさを理由に解雇、形的には金銭トレードで同リーグの阪神に放出されてしまう。

 翌92年、パッキーは9300万円と実績のわりに低めの年俸や古巣大洋への不満を口にすることもなく、黙々と新天地で調整に励む。これには中村勝広監督も「あれだけ真面目にやってくれるとは……。ホントに頭が下がるよ」なんてべた惚れ。するとトーマス・オマリーとともに“OP砲”と呼ばれ、亀山努新庄剛志といった若手とも噛み合い優勝まであと一歩の猛虎フィーバーを巻き起こす。リーグ最多の159安打に打率.311のヒットマシンに加え、自己最多の22本塁打、88打点を記録。やはり、こうしてあらためて数字を振り返ると超優良助っ人である。

 93年はパチョレックとオマリーと郭李建夫の外国人枠争い(当時の一軍登録は2人まで)が社会問題だった国連平和維持活動と絡め、阪神の“PKO問題”と呼ばれ注目を集めたが(同年のザ・ブルーハーツのツアータイトル名も「PKO TOUR」)、結果的にこの争いがパッキーに無理をさせることになってしまう。5月には腰痛の治療のため一時帰国。ファーム調整後に一軍復帰するも、打率.243、7本塁打、36打点と精彩を欠き、8月28日に三好一彦球団社長に「体力の限界」と自ら退団を申し入れた。この年のオールスターファン投票1位で選出される人気を誇り、通算打率.315を残した33歳のヒットメーカーのあっけない退団劇に周囲は驚いたが、動体視力の低下や、腰の痛み止めの薬で胃も痛め微熱にも悩まされるなど満身創痍の状態だったという。

 その2日後、8月30日には早くも離日。26年前の週べ「惜別球人」記事によると、急な帰国にもかかわらず大阪国際空港には大勢のファンがお別れに駆け付けた。「パッキー、ありがとう」「さようなら、パッキー」というファンの大声援に、「こんなに多くの人に見送ってもらえるとは……」と目を潤ませるパチョレック。

 5年前、わずか2600万円の年俸でひっそりと来日した男は、約1000人ものファンに見送られ日本でのプロ野球生活に別れを告げたのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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