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プロ野球20世紀の男たち

仲田幸司、猪俣隆、湯舟敏郎、田村勤……遠山昭治&葛西稔、中込伸、藪恵壹、川尻哲郎……福原忍「“ダメ虎”暗黒期に輝いた滋味あふれる投手陣」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

左腕が光った90年代の前半



 1990年代の阪神は、85年の歓喜が嘘のような暗黒期だった。92年には2位に躍進したものの、あとはBクラスで、2年連続の最下位が3度、つまり最下位は6度。98年からの低迷は深刻で、21世紀に入っても最下位は続き、2001年まで4年連続で最下位に沈みっぱなしだった。攻守ともに噛み合わず、チグハグな野球が目立ったが、魅力的な選手がいなかったかといえば、違う。いや、むしろ個性的で、魅力的だったようにも思う。92年に活躍した亀山努新庄剛志ら打線については紹介した。今回は投手陣。アクの強さでは打線に軍配が上がるが、投手陣の個性には滋味があふれる(?)。

 少し時計の針を戻して、日本一から一転、最下位に沈んだ87年。このときの勝ち頭は来日1年目で11勝を挙げたキーオだった。当時の先発陣は、左腕の仲田幸司が8勝、同じく左腕で、新潟県の出身で初めてドラフト1位で指名された新人の猪俣隆が5勝。まぎれもないエースとなったキーオは、その後も12勝、15勝と低迷する阪神を引っ張ったが、2年ぶり最下位に終わった90年に故障で力尽きる。

阪神・猪俣隆


 その90年に11勝を挙げて頭角を現したのが野田浩司だったが、その才能が満開となったのはオリックスへ移籍してからだろう。翌91年も2年連続で最下位に沈んだが、エースに名乗りを上げたのは猪俣だった。とはいえ、積み上げた白星はチーム最多といえども9勝。フォーム改造などで苦しみながらも先発の軸として支え続けた猪俣のキャリアハイは93年だろう。黒星こそ先行したが、自己最多の11勝を挙げて、ふたたび沈みゆく阪神を支えた。

 歓喜の(?)2位となった92年には仲田が遅咲きの花を咲かせる。日本一も経験した左腕だが、プロ9年目にして初の2ケタ14勝に加え、リーグ3位の防御率2.53、リーグ最多の194奪三振。やはり左腕で、ドラフト1位で91年に入団して即戦力となっていた湯舟敏郎もノーヒットノーランを含む11勝と続き、翌93年に仲田は失速したが、湯舟は自己最多の12勝を挙げた。

 リリーバーも左腕だった。サイドスローの“鉄仮面”田村勤は1年目の91年から救援のみで50試合に投げまくり、翌92年はヒジ痛で7月に離脱したものの前半戦の躍進を支え、その翌93年にはクローザーとして自己最多の22セーブをマークしている。セットアッパーは弓長起浩だ。1年目の92年から51試合に投げまくり、その後も左キラーとして阪神を支え続ける。02年に引退するまで1度も先発のマウンドに立つことはなかった。

福原は1年目から救援のマウンドでフル回転


阪神・福原忍


 右腕も負けていない。ドラフト1位で90年に入団し、翌91年に8勝、その翌92年には開幕投手を務めたのがアンダースローの葛西稔。その92年に9勝ながらリーグ2位の防御率2.42をマークしたのが中込伸だ。

 ドラフト1位で94年に入団。即戦力となって新人王に輝き、翌95年から2年連続でリーグ最多の黒星を喫するも、96年から3年連続で2ケタ勝利に到達したのが藪恵市(恵壹)。95年には先発、救援と役割を問わず投げまくった竹内昌也が自己最多、チーム最多の10勝を挙げている。その95年に即戦力となった新人がサイドスローの川尻哲郎。“ジャイロ”と呼ばれた速度のあるカーブを武器に8勝、翌96年には自己最多の13勝を挙げ、98年にはノーヒットノーランを含む10勝に加え、リーグ5位、自己最高の防御率2.84をマークしている。

 99年には野村克也監督が就任。その奇策によって新庄が投手陣の一角を担う可能性もあったが、実現せず。一方で、ロッテで内野手に転向しながら、98年に阪神へ復帰して投手として復活したのが、1年目の86年に8勝を挙げた実績もある左腕の遠山昭治(奬志)。打者の左右に応じて、葛西と遠山でマウンドと一塁を行ったり来たりする“遠山&葛西スペシャル”も話題になった。ちなみに、99年に1年目からフル回転で10勝を挙げたのが右腕の福原忍で、2016年までの長きにわたって現役を続けた。

写真=BBM
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