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プロ野球20世紀の男たち

大矢明彦、八重樫幸雄&古田敦也「初優勝から低迷、そして“ID野球”へ。ヤクルト司令塔の系譜」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

同期入団の大矢と八重樫



 ヤクルト初優勝、日本一の1978年、不動の司令塔は9年目の大矢明彦だった。当時の捕手は、ずんぐりむっくり、というイメージが一般的。マスクとプロテクターに覆われた姿もあってか、どことなく暗い印象もあった。そんな時代にあって、スマートで明るい性格。その後、阪神や大洋で活躍した若菜嘉晴中日巨人で優勝に貢献した中尾孝義らが登場してくることになるが、そんな新しい時代の捕手たちのパイオニアともいえる存在だった。

 だが、もともとは捕手として期待されての入団ではない。スカウトが魅力を感じたのは、駒大で東都大学リーグ通算12本塁打という、その強打だった。そしてドラフト7位で70年にヤクルトへ。そのときのドラフト1位は、同じく捕手の八重樫幸雄だった。対照的に八重樫は、いかにも当時の捕手といったスタイル。やはり強打が武器で、仙台商高の主将として出場した夏の甲子園では「高校球界の田淵幸一(阪神ほか)」と言われている。ともにプロ1年目として迎えた70年、司令塔の加藤俊夫が交通事故で出場停止となる緊急事態に。その後釜に座ったのは、19歳となるドラフト1位の八重樫ではなく、ドラフト7位、22歳の大矢だった。

 いい意味で期待を裏切ったのは、その強肩だった。走られても投手がウエストする必要はなく、大矢がマスクをかぶっているときは「走ってもムダ」という雰囲気が漂い始める。そして、正確な捕球、投手の長所を引き出す頭脳的なリードにも磨きをかけていき、投手陣の信頼を集めていく。投手陣の左右両輪として機能した安田猛松岡弘と年齢が同じだったこともプラスに働き、ヤクルトは初優勝へと突き進んでいくことになる。

 捕手としての完成度は早くから高く、72年に初のダイヤモンド・グラブを受賞すると、75年から初のベストナインにも輝いた日本一イヤーの78年まで4年連続で受賞。打撃には安定感を欠いたが、勝負強さが魅力だった。

ヤクルト・八重樫幸雄


 一方、いきなり同期の大矢に出場機会を阻まれることになった八重樫は、内野や外野を守りながら出番をうかがうも、バットを持っては精彩を欠き、自慢の強肩を発揮するチャンスにも恵まれず。長く大矢の控えに甘んじ続けることになった。それでも、最初は年齢と経験の面で大矢に差をつけられた面もあった八重樫だったが、その年齢の差は、時間が経つにつれて八重樫への追い風となる。

 80年に2度目のベストナインに選ばれた大矢だったが、その後は出場機会を減らしていくと、じわじわと頭角を現していった。メガネのフレームが視界を妨げるため、投手に対して顔が正面に向くように始めたオープンスタンスで打撃も開眼。33歳となる84年、ついに司令塔の座に就いた。

黄金時代を築いた古田


ヤクルト・古田敦也


 だが、すでに八重樫もベテラン。司令塔を担ったのは87年までで、翌88年には4年目の秦真司が台頭してくる。そして、その秦を外野へ追いやり、新たに司令塔となったのが90年に入団した古田敦也だ。就任したばかりの野村克也監督から「メガネの捕手は大成しない」(むしろ八重樫の立場がないが……)、「肩は一流、打撃は二流、リードは三流」などを言われながらも、ベンチでは常に野村監督の前に座り、その“ボヤキ”を聞きながら、そのすべてを吸収していく。

「二流」と言われた打撃でも2年目の91年に打率.340で首位打者に。翌92年から2年連続で全試合に出場。その92年がヤクルト2度目のリーグ制覇、そして93年が初の連覇、そして2度目の日本一だった。ヤクルトは95年、97年にもリーグ優勝、日本一に。古田は93年と、チーム83勝と絶頂期を迎えた97年の2度、MVPに輝いている。

 大矢は85年オフに現役を引退。八重樫は代打の切り札として存在感を維持して、ヤクルトが15年ぶりに王座を奪還した93年に24年もの現役生活をまっとうした。古田は21世紀に入っても活躍を続け、通算2000安打にも到達、兼任監督も務めて、07年オフに退任、現役も引退した。活躍した時代は違うが、3人そろって、ヤクルトひと筋を貫いている。

写真=BBM
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