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プロ野球20世紀の男たち

広沢克己、池山隆寛、秦真司、飯田哲也、荒井幸雄、土橋勝征、稲葉篤紀、宮本慎也、真中満……「ツバメの打線を育てた“ノムラの教え”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

さらなる飛躍を遂げた80年代の好打者たち



 2019年は最下位に沈んだヤクルトだが、その歴史においても、低迷していることが多いと言わざるを得ない。そんなヤクルトにあって、貴重な黄金時代と言えるのは1990年代、野村克也監督の掲げた“ID野球”が実を結んだ時代だろう。データを駆使する野球には知的な印象があり、知的な部分が前に出てくると明るい印象は失われていくものだ。ただ、当時のヤクルトに暗い印象はない。低迷するチームは雰囲気が悪くなりがちなのだが、Aクラスは1度のみ、最下位は4度という80年代も、それは同様だった。

 その80年代に世代交代は進み、打線の主軸に成長したのが広沢克己と池山隆寛。2人そろって「本塁打か三振か」という豪快な打撃が持ち味だったが、野村監督となって、

「もうミーティング漬けでした。仕事の三大要素とか、野球の話は一切ない。クエスチョンマークばかりでした」(池山)

「技術論を教えられるっていうのが、ほぼないんですよ。確率論だけじゃなくて配球も考えなさいよ、とか、打者や投手の心理に捕手の心理とか、そういうことが多かった」(広沢)

 ともに当初は戸惑いも多かったが、徐々に“ID野球”へ順応。変わらず主軸として打線を引っ張っていく。「三振は何も生まない」という野村監督の発言を聞いた池山は、確実性を求めてフォームを修正したことで、かえって持ち味を失い、不振に陥る。それでも、「2ストライクまではフルスイング」というシンプルな結論を導き出すと、野村監督1年目の90年に31本塁打を放ちながら、初の打率3割。91年に初の打点王となった広沢は、93年にも2度目の打点王に輝いてリーグ連覇の起爆剤となった。

 さらなる飛躍を遂げたのは、この2人だけではない。強打も兼ね備えた“ID野球の申し子”古田敦也が1年目から正捕手に定着したことで活躍の場を失いかけていた捕手の秦真司飯田哲也は外野手に転向して大成功。飯田は92年に盗塁王となってリーグ優勝に貢献、秦は勝負強い打撃に磨きをかけ、その92年の西武との日本シリーズでは2勝3敗と後がない第6戦(神宮)の延長10回裏にサヨナラ本塁打を放つなど劇的弾で印象を残す。

 三番が多かった荒井幸雄は飯田に続く二番打者として巧打を発揮。Vイヤーの92年にはチャンスで集中力を欠いて野村監督に軽く頭を小突かれる“ポカリ事件”もあったが、10月7日の阪神戦(神宮)ではサヨナラ打を放って、快進撃を続ける阪神の勢いを止める。このとき、真っ先にベンチを飛び出し、荒井に抱きついたのは野村監督だった。

21世紀の主力を育んだ90年代の後半


ヤクルト・土橋勝征


 92、93年の連覇で外野の守備固めとして頭角を現し、90年代の後半は正二塁手として黄金時代を支えたのが土橋勝征。印旛高では強打の遊撃手だったが、野村監督に「バットを短く持ってもホームランは打てる」と言われ、95年シーズン終盤から三番打者として優勝、日本一に貢献した。強打だけでなく華麗な遊撃守備で鳴らした池山が故障に苦しんだ96年にレギュラーとなり、土橋との二遊間で翌97年の優勝、日本一を支えたのが宮本慎也。90年代の後半は、21世紀の主力が育った時代でもあった。

 荒井に代わって外野陣に食い込み、二番打者として95年の栄光を支えたのが稲葉篤紀だ。法大で、野村監督の息子でもある明大の野村克則(カツノリ)と対戦したとき、その試合を観戦していた野村監督に見出されたことが獲得につながって、1年目から優勝、日本一に貢献。野村監督ラストイヤーの98年に外野のレギュラーに定着したのが6年目の真中満だが、若手時代から日本シリーズでは抜群の強さを発揮して、97年の西武との日本シリーズでは一番打者として全試合に出場して打率.333をマーク、野村ヤクルトを最後の日本一へと引っ張った。

「球道即人道」を座右の銘に掲げた宮本は21世紀に通算2000安打に到達した。98年オフに退任した野村監督の思想は「野球人である前に人間であれ」。似て非なるもののようだが、心の奥底で通じ合う双子のように似てもいる。

写真=BBM
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