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プロ野球20世紀の男たち

伊東昭光、川崎憲次郎、西村龍次、岡林洋一、石井一久、伊藤智仁、山部太&高津臣吾「ヤクルト“ID野球”の投手陣」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

復活のベテラン、ブレークのドライチ



 野村克也監督が就任した1990年のヤクルト。野村監督はImportant Date、データを重視する“ID野球”を掲げ、9年連続でBクラスに沈んでいたチームの改革を図る。その90年に入団し、1年目から正捕手となった古田敦也については紹介した。そんな“ID野球の申し子”のリードで、投手陣も水を得た魚のように生き生きと躍動し始める。

 だが、迎えた90年の開幕戦、4月7日の巨人戦(東京ドーム)では、8回裏に巨人の篠塚利夫が右翼ポール際のファウルゾーンに飛び込む打球を放ち、これが本塁打と判定され、最終的には延長14回裏に押し出し四球でサヨナラ負けの悪夢。しかし、その“本塁打”でマウンドに崩れて悔しがる“ギャオス”内藤尚行の姿は、やや逆説的だが、黄金時代へ突入していく象徴的なシーンだ。

 その90年は5位に終わったが、2年目の川崎憲次郎や新人の西村龍次、暗黒時代を投げ抜いてきた宮本賢治の3人が、いずれも初の2ケタ勝利。翌91年も川崎と西村、そして新人でクローザーを任された岡林洋一の3人が2ケタ勝利に到達し、ついにヤクルトはBクラス脱出を果たす。

 その翌92年は、いわゆる“野村再生工場”も本格的に稼働を開始。2ケタ勝利は岡林と西村の2人だけだったが、伊東昭光荒木大輔高野光ら故障に苦しんでいたベテラン勢が快進撃をバックアップ、14年ぶりにリーグ優勝を飾った。西武との日本シリーズは激戦の末に敗れたが、30イニング、430球を投げ切って3完投、防御率1.50ながら1勝2敗と熱投を見せたのが岡林。その後、岡林は登板過多の影響もあって故障と復帰を繰り返すようになるが、その悲運の力投は栄光の序章でもあった。

 迎えた93年は、伊東が13勝で完全復活。その一方で新人の伊藤智仁が高速スライダーで一世を風靡して新人王に。そして、野村監督に「遅いシンカーを覚えてみろ」と言われて伝家の宝刀を手に入れた高津臣吾がクローザーに定着して最優秀救援投手。日本シリーズでは川崎が2勝を挙げて西武に雪辱を果たし、ヤクルトは初のリーグ連覇、15年ぶり2度目の日本一に。“ID野球”が実を結んだ瞬間だった。

 すべてのチームに勝ち越す完全優勝を成し遂げた95年は左腕が輝いたシーズンだった。2年目の山部太が16勝を挙げると、4年目の石井一久も13勝。助っ人のブロスや近鉄から移籍してきた吉井理人、そして伊東らの右腕も2ケタ勝利に到達。「がんばろうKOBE」を合言葉に初優勝を果たし、勢いに乗るオリックスと激突した日本シリーズでは、2年連続で首位打者となったイチローを19打数5安打に封じて4勝1敗で貫録を見せつけた。

4位の翌年は日本一


ヤクルト・石井一久


“再生工場”で復活する投手が多かった一方、故障に苦しむ投手も少なくないのが、この時期のヤクルトでもあった。V逸の94年、96年は、やはり故障者が続出。それもあってか、93年からは、日本一の翌年は4位、というジンクスが始まる。ただ、4位の翌年は日本一でもあり、それは“再生工場”が順調に稼働したシーズンでもあった。

 97年はダイエーでくすぶっていた移籍3年目の田畑一也に吉井と移籍組が2ケタ勝利。高津が不振に苦しむと、右肩の故障から復活した伊藤が代わってクローザーを務めた。ペナントレースは横浜が猛追も、直接対決で石井がノーヒットノーラン。最終的には95年に更新した球団記録を早々に更新する83勝で、シーズンを通じて首位を独走、そのまま優勝のゴールテープを切った。

 日本シリーズでは西武と3度目の顔合わせ。かつては黄金時代の西武に挑む図式だったが、“ID野球”が円熟したヤクルトが若返った西武を迎え撃つ形となり、4勝1敗で撃破。第5戦(神宮)は石井から高津まで5投手による零封リレーだった。

 だが、川崎が17勝で最多勝、石井が241奪三振で最多奪三振に輝いた98年は、日本一の翌年は4位、というジンクスを崩せず、オフに野村監督は退任。そして翌99年、4位の翌年は日本一、という流れも途絶えた。

写真=BBM
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