昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 バッキーが引退を決意
今回は『1969年9月15日号』。定価は70円。
三沢高のエース、
太田幸司人気がすさまじい。
8月26日、全日本高校選抜が羽田空港からブラジルへ出発したが、出発の2時間半前にはファンが詰めかけ、グループサウンズ公演のように黄色い声援を送った(分かりますか、このたとえ)。
実は25日発予定がビザの関係で1日延びたのだが、それさえ「私たちを太田さんから遠ざけるために嘘を流した」と、主催者の朝日新聞、高野連に女性ファンからの猛抗議が殺到したらしい。
それでも26日は3000人近くが空港に集まったというから、何といえばいいのか……。
太田は当然、プロの争奪戦になっていたが、自身は早大に進み、早慶戦に投げ、将来は外交官になりたい、という夢もあったらしい。
プロでは
村山実ファンでもあり、
阪神希望と言われたが、いずれにせよ、ドラフト待ちだ。
太田を「
スタルヒン二世」ということに対し、評論家の大井廣介は、「ともに白系ロシアの血を引くだけではないか」と言い、さらにこう続ける。
「太田よりスタルヒンのほうがはるかに速い。スタルヒンがエビのように長身を折り曲げて投げ込む快速球には、つり球が多かったが、凡打したり空振りするから悪球なのだ。しかし相手には見分けるいとまがなかった。
太田は低めを好球で突いていた。高校水準では打てないが、プロでは好球をそろえてくれるのはありがたい。あれだけでは到底すぐ勝ち投手になれない」
野球の見巧者らしい鋭い話だが、スタルヒンのピッチングについても一文も掲載しておこう。たぶん、戦後のかなりでっぷり太ったスタルヒンの話だろう。
「スタルヒンは相手の打ち気が強いと、腕を何回も回したり、バカにしたようなスローカーブを投げてくさらせたり、なめると猫がネズミを玩具にするような愚弄の仕方をし、大選手の風格にはほど遠く、なにかのはずみでピンチに当面し、怖い打者を打席に迎えると、白い顔を真っ赤にし、スパイクでマウンドの地ならしをしたり、てのひらにつばをくれたり、慌てだす。
これではまずいと捕手が歩かせろと指示すると、にこにこと相好を崩す。喜怒哀楽丸出しで、ぼくはあの愛嬌を愛したが、大物は大物でも喜劇的大物。三枚目だね」
阪神から移籍した近鉄のバッキーがついに引退を決めたようだ。
大阪の夕刊紙に「ファンのみなさん、8年間にわたって私を応援してくれたことに感謝します。みなさんの幸福を祈ります」という手記を乗せたのだ。
バッキーは椎間板ヘルニアの手術を受けたが、当時、この手術からカムバックした例はなかった。それはバッキーが一番分かっている。手術台に向かうとき、涙が止まらなくなったという。
「ドクターに手術してもカムバックできる可能性は5割ないと言われた。それでもなんとか痛みを取り除くために手術してほしかったんだ」
手記を載せたのは「クビ」になる前に、自ら「引退」を選んだ形にしたかったからとも言われた。
巨人・
柴田勲が揺れていた。前年から
川上哲治監督の指示でスイッチではなく、右打ちをしていたのだが、8月16日、1年1カ月ぶりの左打席に入った。要は右だけでは打率が上がらないからだ。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM