2019年11月26日に最優秀選手(MVP)が発表される。令和最初の最優秀選手は誰になるのか非常に注目が集まっているが、では前年号の最初の年だった「平成元年(1989年)」の最優秀選手争いはどんなものだったのか、皆さんは覚えているだろうか?
平成最初のセ・リーグMVPは巨人史に残る助っ人が受賞
平成元年となった1989年は、
ヤクルトの
ラリー・パリッシュが42本の本塁打を放ち、最多本塁打のタイトルを獲得。
中日の
落合博満が116打点で最多打点に輝いた。しかし、こうしたライバルを抑えて最優秀選手に選ばれたのは、リーグ優勝した巨人のウォーレン・クロマティだった。
この年のクロマティは開幕から打ちまくり、5月半ばには打率が4割台半ばまで上昇。一時期3割台に落ちるが(これでも圧巻だが)、8月に再び4割に戻す。この時点で規定打席に到達していたため、残り試合を欠場すれば夢の4割打者の誕生だったが、そのまま出場を続け、最終的に打率.378でシーズンを終えた。打率.378は球団歴代最高打率であり、もちろんこの年の首位打者。同時に最高出塁率(.449)のタイトルも獲得した。
一方、投手では同じチームの
斎藤雅樹が最多勝(20勝)と最優秀防御率(1.62)の投手2冠に輝いている。例外はあるものの、最優秀選手はリーグ優勝チームから選ばれるのが一般的。実際に、この年の投票結果は斎藤がクロマティに次ぐ票数を集めていた。クロマティのライバルは同じチームにいたのである。
ちなみに、クロマティはこの年のシーズン前に「今年で野球を辞めて来年からミュージシャンに専念する」と宣言。かねてよりミュージシャンになることが夢だったクロマティは、毎シーズン同じようなコメントをしていた。しかし、このときは前年に東芝EMIからCDデビューしていたこともあり、多くのファンが本当にこれで最後かと不安になっていた中での大活躍だった。
ダブルヘッダーで4打数連続本塁打のブライアントが受賞
平成元年のパ・リーグは近鉄、
オリックス、
西武の3チームが激しい優勝争いを展開。最終的に近鉄が2位オリックスを勝率1厘差(ゲーム差なし)でしのぎきり、リーグ優勝を果たした。この年の近鉄打線は、前年に中日から加入していたラルフ・ブライアントが牽引した。
開幕からスタメンで出場し続けたブライアントは、途中22試合連続三振を記録するなど好不調の波があったものの本塁打を量産。最終的に49本で最多本塁打のタイトルを獲得した。
残念ながら2位に終わったオリックスだが、打線の中心は1984年に三冠王に輝き、以降も強力なバッティングでチームを勝利に導いてきた
ブーマー・ウェルズだ。シーズン序盤から安打、本塁打を量産し続け、終わってみれば首位打者(.322)、最多打点(124点)と2つのタイトルを獲得した。
最優秀選手は優勝チーム以外からも選ばれることがあり、前年にはリーグ5位だった南海から、40歳にして二冠王に輝いた
門田博光が選出されていた。そのため、ブーマーもチームは2位に終わったものの、圧倒的な成績から選ばれる可能性もあった。
しかし、記者投票ではブライアントとリーグ最多の19勝を挙げた、同じく近鉄の
阿波野秀幸に票が集まり、ブーマーにはほとんど票が入らず。最終的に1位票の多かったブライアントが最優秀選手に選ばれた。西武とのダブルヘッダーで4打数連続本塁打を記録するなど、チームを優勝に導く原動力となったのが大きかった。
平成元年の最優秀選手は、史上初の4割打者にあと一歩まで迫ったクロマティと、ダブルヘッダーでの奇跡の4連発を放ったブライアントという、非常にインパクトのある活躍をした助っ人2人が受賞した。実は両リーグの最優秀選手がともに助っ人外国人というのはこれが史上初。以降も2001年(ヤクルトの
ロベルト・ペタジーニと近鉄の
タフィ・ローズ)しか記録されていない珍しい受賞でもあった。
文=中田ボンベ@dcp 写真=BBM