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プロ野球20世紀の男たち

平野謙&川相昌弘「“小技”が描いた大いなる軌跡」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

盗塁王にも輝いた平野



 犠打、つまり送りバントは、しばしば“小技”と表現される。確かに、打席でのアクションも小さく、打球も転がるだけだ。よって、この表現も間違ってはいないだろう。ファンが送る喝采も、本塁打などの“大技”に比べれば、はるかに小さい。注目されづらく、評価されにくい犠打。20世紀のプロ野球には、そんな地味なプレーに自らの生きる道を託した男たちがいた。

 1982年、大洋の近藤昭仁が65年にマークしたシーズン41犠打を超える51犠打を決めて、プロ野球の頂点に立ったのが中日の平野謙。この82年の中日はリーグ優勝を成し遂げたが、白星は巨人を下回っていた。最多出塁のタイトルを獲得するなど圧倒的な出塁率を誇ったリードオフマンの田尾安志は果敢な盗塁で自ら進塁していくタイプではなく、二番で続いた平野の“小技”が、田尾を得点圏に進め、クリーンアップにつなげたことが僅差の優勝につながったことは間違いないだろう。

 地元の犬山高から名商大を経て投手としてドラフト外で78年に中日へ。最初に与えられた背番号は81だった。二軍では2勝を挙げ、背番号も57へ変更されたが、芽が出ないまま外野手に。スイッチヒッターに挑戦し、81年に就任した近藤貞雄監督に見出されて一軍に定着した。犠打を打撃の一部と考え、ひたすら地味な練習を繰り返して、中堅の定位置をつかんだのが82年。“野武士野球”と言われた派手な打線にあって、地味なプレーで優勝に貢献した。翌83年からは背番号3に。派手な印象のある背番号ながら、地道なプレーでチームを支え続けた。

 平野の白眉は犠打にとどまらない。田尾がトレードで放出されると、85年からはリードオフマンを任され、以降2年連続で全試合に出場、85年には打率3割に到達し、86年には48盗塁で盗塁王のタイトルを獲得した。黄金期の西武へ移籍してからは5年連続リーグ最多犠打。90年には阪神吉田義男が残した通算264犠打をも超えて、通算犠打でもプロ野球の頂点に立った。

 その90年に、82年の平野を超える58犠打をマークしたのが巨人の川相昌弘だ。平野と同様、ドラフト4位で83年に入団したときは投手。すぐに内野手となり、じわじわと守備要員として存在感を見せていく。だが、打撃は力不足に苦しみ続けた。転機は89年。中日で平野を導いた近藤ヘッドコーチが指揮を執ったキャンプで「投手を中心に守り勝つ野球を目指す」と新たな方針を打ち出したことで、犠打を軸としたチーム打撃に目を向けるようになった。シーズンでは規定打席に届かなかったが、遊撃手として初のゴールデン・グラブに。

 翌90年から4年連続リーグ最多犠打。91年の66犠打は、20世紀の最後までプロ野球のトップに君臨し続けた。94年こそ横浜の石井琢朗に譲ったが、“犠打王”に返り咲いた翌95年の成功率は100パーセント。「川相といえばバント」と警戒される中、1度も失敗しなかったのは驚異だ。

平野を超えて世界の頂点に立った川相


巨人・川相昌弘


「バントばかりして、つまらない」と揶揄されることも少なくなかった川相が、平野の残した通算451犠打を超えたのが98年。ようやく、「バントはつまらない」という風潮が変わり始めた。21世紀にはエディー・コリンズ(アスレチックスほか)の通算511犠打をも超えて世界の頂点に。コリンズの犠打は犠飛も含まれた数字で、送りバントに限定すれば川相の数字が圧倒する。最終的には通算533犠打を残したが、これは現在も世界の頂点に君臨している。

 プロ野球の“犠打王”をリレーした2人には共通点も多い。平野は「自分が生きたい(出塁したい)気持ちを抑える」、川相は「気持ちの中ではバッティングは捨てた」と語る。表現は違うが、自らの打者としての欲を抑制することに務めた点では同じだ。ともに堅守にも定評があり、内野手の川相は二塁、三塁を守っても名手ぶりを見せ、外野手の平野は抜群の強肩と絶妙なポジショニングでファインプレーを普通のプレーに見せるなど職人肌を発揮した。

 職人タイプの選手というと寡黙なイメージを抱きがちだが、ともに真逆のムードメーカー。20世紀の日本シリーズ出場は、ともに6度を数える。

写真=BBM
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