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プロ野球20世紀の男たち

斉藤明夫&遠藤一彦「“横浜大洋ホエールズ”の二枚看板」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

ヒゲのクローザー&“横浜大洋”のエース


大洋・遠藤一彦


 1984年10月13日、ダントツの最下位に沈んだ大洋のラストゲーム。9回表二死、横浜スタジアムのマウンドに上がったのは平松政次であり、マスクをかぶったのは辻恭彦だった。長く大洋をエースとして支えてきた平松、そして阪神と大洋で23年間“ダンプ”の愛称で親しまれた辻。そんな2人のラストシーンだった。

 その光景を、2失点の好投で平松にマウンドを託しながら、ベンチに下がらず、右翼手として見守っていたのが遠藤一彦。平松が最後の打者を抑えたことで、遠藤の最多勝が決まった。平松と並ぶ2年連続2度目の最多勝。平松の引退登板は、どん底に沈み続ける大洋というチームを背負う、エースの“継承式”にも見えた。

 60年の初優勝、日本一を最後に、優勝から絶縁されたかのようだった大洋。特に投手陣は苦しい時期が長かった。大洋が川崎から横浜へ移転して「横浜大洋ホエールズ」となった78年は、遠藤のプロ1年目でもある。その78年に自己最多の16勝を挙げたのが、その前年の77年、つまり川崎ラストイヤーに新人王となったのが斉藤明雄(明夫)。1年目とは思えないマウンドさばきで、当時は深緑にオレンジ色というポップすぎるユニフォームだったが、それが一層、ふてぶてしさを浮き彫りにしていたようにも見えた。

 横浜へ移転したことで、ユニフォームも白地に港町の横浜らしいマリンブルーのものになり、知性ただようスマートな風貌の平松や遠藤が“着こなした”一方、斉藤は80年代に入り口ヒゲをたくわえて持ち味を維持、救援のマウンドに仁王立ち。気迫あふれるストレートに加え、緩いカーブと鋭いカーブを投げ分けて打者を幻惑した。

 80年はクローザーを担った遠藤は、長身を利した快速球と、阪神で村山実のフォークを受けていた辻の助言で習得した落差のあるフォークで、先発の軸として成長。この図式が定着したのは82年で、大洋は53勝のみだったが、もちろん遠藤と斉藤のリレーもあったとはいえ、遠藤は12完投で14勝、斉藤は5勝30セーブで、規定投球回にも到達して防御率2.07で最優秀防御率にも。翌83年は遠藤が18勝で初の最多勝、斉藤が10勝22セーブで初の最優秀救援投手に。平松に歴戦の傷跡が深くなっていく中で、1学年の違いはあったが、誕生日は2カ月ほどしか離れていない2人は、投手陣の二枚看板となっていく。

遠藤のクローザー定着で斉藤も復活


大洋・斉藤明夫


 巨人江川卓をライバルとして意識していた遠藤だったが、その巨人で80年から3年間プレーしたホワイト、87年にヤクルトで旋風を巻き起こしたホーナーら、メジャーの実績を誇る男たちが、メジャーで通用する日本人の投手を聞かれると、遠藤の名を挙げた。そんな遠藤の連続リーグ最多完投は86年に途切れたが、その86年に斉藤は2度目の最優秀救援投手。翌87年に5年連続で開幕投手を任された遠藤もリーグ最多完投に返り咲き、6年連続2ケタ勝利。だが、その終盤、右足アキレス腱を断裂する悪夢に見舞われる。

 それでも6年連続の開幕投手を目標に、すぐにリハビリを開始した。開幕投手こそ逃したものの、本拠地開幕戦で戦列に復帰。とはいえ、それまでの輝きを簡単に取り戻せるはずもない。その穴を埋めるべく先発に回ったのが斉藤だった。ただ、長く遠ざかっていた先発のマウンドに斉藤も苦しめられる。

 2人が再び真価を発揮したのは90年。かつては遠藤と入れ替わるようにクローザーに回って成功した斉藤だったが、その90年に遠藤がクローザーに定着したことで斉藤も復活の10勝、遠藤は6勝21セーブでカムバック賞を贈られた。遠藤は「横浜大洋」ラストイヤーとなった92年に現役引退。横浜ベイスターズ元年となった翌93年に引退した斉藤は、“川崎”大洋から横浜大洋、そして横浜ベイスターズという3つの時代を知る唯一の選手となった。

 ともに長身で、似ているようで対照的だった2人。98年、横浜は38年ぶりにリーグ優勝を成し遂げたが、斉藤は一軍の投手コーチ、遠藤は二軍の投手コーチとして貢献する。その瞬間、斉藤は選手よりも興奮して雄叫びをあげ、遠藤は人目をはばからずに号泣したという。

写真=BBM
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