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プロ野球20世紀の男たち

野村弘樹、斎藤隆、三浦大輔、川村丈夫、戸叶尚&阿波野秀幸、五十嵐英樹、河原隆一、島田直也、横山道哉「“大魔神”につないだハマの“ローテーション”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

先発では3投手が2ケタ勝利


横浜・斎藤隆(左)、野村弘樹


 1998年に38年ぶり優勝、日本一に輝いた横浜。その絶対的クローザー“大魔神”佐々木主浩については、すでに紹介した。MVPに選ばれた佐々木だが、登場するのは9回からで、チームがリードしていることが条件だ。どんな“大魔神”であっても、登場しなければ神社の奥に眠る秘宝のようなもの。頼りの“マシンガン打線”も、いつも“撃ち続ける”ことはできない。投手陣が8回まで試合を作り、リードを維持することは、優勝の最低条件でもあった。

 ほとんどのチームでエースは先発の軸となっているが、この98年の横浜で、誰か1人をエースと呼ぶのは難しい。ただ、これは先発陣が機能しなかったことを意味しない。一方、防御率2.05で92年に最優秀防御率に輝き、以降は佐々木と“ダブル・ストッパー”として活躍した盛田幸妃(幸希)は97年オフにトレードで近鉄へ。翌98年8月に脳腫瘍が判明して野球とは違う過酷な戦いに身を投じることになるが、横浜にとっても、リリーフの切り札が1枚、欠けたことは確かだった。そんな投手陣を、現役時代は中日でエースとして1年目から酷使されて短命に終わった権藤博監督が巧みに組織し、それぞれの持ち味を発揮させていく。

 スターターでは4投手が規定投球回に到達している。チーム最多の13勝に並ぶのが、PL学園高のエースとして春夏連覇を達成し、ドラフト3位で88年に当時の大洋へ入団した野村弘樹と、東北高と東北福祉大では佐々木の後輩で、ドラフト1位で92年に入団した斎藤隆。プロでは野村が先輩だが、2人は同学年でもある。野村は90年に先発として初の2ケタ11勝を挙げ、チームが横浜となった93年に17勝で最多勝。その後は左肩痛に苦しむも、96年に復活した。その96年に斎藤は初の2ケタ10勝。だが、翌97年には斎藤も右ヒジ痛で開幕を前に手術を受け、シーズンを棒に振る。迎えた98年は復活を懸けたシーズンでもあった。

 この左右両輪に続く12勝を挙げた右腕が“ハマの番長”三浦大輔だ。ドラフト6位で大洋ラストイヤーの92年に入団。徐々に頭角を現し、97年に斎藤の穴を埋める初の2ケタ10勝を挙げて、のちに代名詞にもなる背番号18に変更して98年を迎えた。

 だが、開幕投手は、この3人ではない。ドラフト1位で97年に入団した右腕の川村丈夫だ。2年目の大抜擢だったが、その4月3日の阪神戦(横浜)で川村は1安打完封。リーグ優勝の起爆剤となる。後半戦は伸び悩んで8勝にとどまったが、3勝2敗で王手をかけた西武との日本シリーズ第6戦(横浜)で先発すると、7回1/3を無失点で投げ抜く好投で日本一を呼び込んでいる。規定投球回には届かなかったが、97年に10勝を挙げた右腕の戸叶尚も7勝を挙げている。

中継ぎ4投手が登板40試合を突破



 スターター陣から佐々木につなぐセットアッパー陣にもローテーションが形成されていた。右腕で抜群のインパクトを残したのが40試合に登板した6年目の五十嵐英樹で、口ヒゲをたくわえて独特なポーズでマウンドに仁王立ちして、ついた異名が“ヒゲ魔神”。また、佐々木と似た投球スタイルもあって“小魔神”と呼ばれた3年目の横山道哉は53試合に投げまくった。

 97年にリーグ最多の66試合に登板した河原隆一が98年は30試合にとどまった一方、97年の最優秀中継ぎ投手となり、98年もセットアッパーとしてチーム最多の54試合にフル回転、9月4日からの首位を争う中日との敵地での直接対決で3連投して2勝を挙げたのが島田直也だ。貴重な左腕が阿波野秀幸。近鉄80年代の“トレンディー・エース”だが、90年代は故障に苦しみ、巨人を経て横浜で復活、自己最多の50試合に登板した。ちなみに、佐々木の登板は51試合。リリーフ陣の登板数が大きく変わらないのは、もちろん偶然ではない。

 逆に、極端に少なかったのが完投の数。開幕戦を川村が完封して以来、6月24日のヤクルト戦(横浜)で三浦が完投勝利を収めるまで、54試合連続無完投という珍記録もあった。

写真=BBM
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