プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 「根本さんから広岡さん、絶妙の順番」
1980年代から90年代にかけての西武の黄金時代については、たびたび触れてきた。
秋山幸二、
清原和博、
デストラーデの“AKD砲”、
工藤公康と
渡辺久信ら投の左右両輪、底力となった
辻発彦ら打の名バイプレーヤーに、次々に登場した強力投手陣、そして監督の
広岡達朗と
森祇晶。ただ、初優勝の82年から、リーグ5連覇を成し遂げた94年まで、一貫して西武の第一線で活躍を続けたのは、石毛宏典だけだろう。
どん底の西武へドラフト1位で81年に入団して新人王。そのままレギュラーを維持し、86年には無冠ながらMVPに輝くと、チームリーダーとして西武を引っ張り続けた。西武に在籍した14年間で、打撃の数字には目を見張るようなものはないが、これはチームプレーに徹したことを意味する。出場の最少は90年の100試合で、次がラストイヤー94年の111試合。この2年を除いて、すべて120試合を超えている。この数字は驚異であり、そして重い。リーグ優勝の経験は11度、日本一は8度。もちろん、当時の西武と同じ数字だ。まさに西武黄金時代のすべてを知る男といえる。
入団したときの監督は
根本陸夫だったが、
「監督としては優勝できなかったけど、その後、管理部長をしていた時期を含めて、西武が長く強かった理由というと、やっぱり根本さんなのかな。新人の補強も根本さんの人脈、裏技を使って、秋山や
伊東勤、工藤と集めていた。それで、ある程度、道を作ってから、これだけの選手を俺では料理できないから、と言って、広岡さんを呼んで教育を託したという感じですよね」
2年目の82年に監督となったのが広岡だ。
巨人で名遊撃手として鳴らした広岡に、遊撃守備を徹底的に指導された。1年目からダイヤモンド・グラブに選ばれたプライドから、当初は反発したが、しだいに心酔していく。
「“昭和の名将”は広岡達朗しかいない。本来、プロ野球は技術屋の集団であるべきなんですよ。ただ、プロに入る人間が、すべて完成されているわけではない。あのときの西武はバラバラで、選手の技術やレベルも十分じゃなかった。それを、どう節制させ、どう指導すれば一人前になるのか。そういう眼力と手腕があった。個々のスキルアップを徹底的に行い、それでチーム力を上げ、勝てる集団にした。それだけの技術を持った“技術屋”でもありましたね。いまプロ野球を見回しても、技術を教えることができる指導者は、そうはいない。根本さんの人集め、広岡さんの教育。絶妙の順番でしたよね」
「僕はグラウンドで背中を見せてきた」
広岡は日本一を逃した85年オフに退任。後を受けたのは84年までヘッドコーチとして広岡を支えていた森だった。
「森さんはマネジメントができた方でしたね。ベテラン、中堅、若手と、バランスよく選手がそろい、固定しながらも故障させないように休ませたり、何人かを使い分けたり、スーパーサブ的な選手の使い方もうまかった。控えの選手もレギュラーが固まっていたほうが自分の出番や役割を読みやすいこともあったでしょう。ただ、あれだけのメンバーで固定されると、なかなか控えはレギュラーになれない。レギュラーはレギュラーで、簡単には休めない。いい選手が控えにもそろっているから、休んでいる間にポジションを取られたくないというのもありました」
守っては87年に遊撃から三塁へのコンバートを成功させ、通算10度のゴールデン・グラブ。走っては14年間で2ケタ盗塁12度、打っては長打も犠打もあり、のちのダイエー時代を含む通算236本塁打は、通算200犠打を超える選手では1位タイだ。
「森さん時代は、もうベテランになっていたから、僕がミーティングで檄を飛ばすこともありました。あれが効きました、と言ってくれる後輩もいるんだけど、大したことは言ってないはず(笑)。僕は野球にマジメだったし、グラウンドで背中を見せてきたから、石毛さんに言われたら仕方ない、となったのかもしれないですね」
森の退任で“4人目”となる可能性もあったが、要請を固辞して根本監督の率いるダイエーへ95年に移籍、翌96年オフに引退した。
写真=BBM