プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 先発はコマ不足もリリーフは充実
阪神の歴史における最大の歓喜は、やはり“猛虎フィーバー”の1985年だろう。2リーグ制となってから唯一の日本一ということもあるが、日本中がタテジマになったわけではないものの、タテジマの虎党が日本中をタテジマに染め上げるかのような勢いで阪神を後押し。21世紀に入ってからも2度の優勝があり、やはり熱狂はあったが、当時の記憶と比べると、どうしても色あせて見えてしまう。
ある意味、主役はファンだったのかもしれないが、そんなファンに火をつけたのはチーム219本塁打を残した打線で間違いない。投手陣が打たれても、たちまち打ち返せるような雰囲気もあった。とはいえ、完全に“投壊”していたら、あの優勝はなかっただろう。ただ、前年の2ケタ勝利はクローザーの
山本和行が唯一で、最終的には通算700試合に登板して100勝100セーブにも到達する左腕の孤軍奮闘といえる状態。先発から“投壊”する恐れもあったことは確かだ。
救世主となったのが助っ人のゲイルだった。メジャー通算55勝の右腕で、来日1年目から先発の軸を守ってチーム最多の13勝。これで投手陣の計算がしやすくなったのは間違いないだろう。勝ち星でゲイルに続いたのが
中田良弘だ。ドラフト1位で81年に入団し、その7月から無傷の18連勝。この85年に記録は途切れたが、それも8月に入ってから。最終的には12勝を挙げて優勝に貢献した。
前年の先発陣で最多の9勝を挙げた2年目の
池田親興も、開幕投手としては結果を残せなかったが、2年連続9勝。
西武との日本シリーズでも第1戦(西武)に先発して完封勝利、日本一への流れを作った。83年に13勝を挙げた
工藤一彦も6勝で続いたが、主にリリーフ。規定投球回に到達したのはゲイルと池田の2人のみで、6月から先発の一角を担った中田は、わずかに届いていない。先発の“三本柱”ではライバルの
巨人に迫力で及ばないことも間違いないが、その一方で、リリーバーは充実していた。
セットアッパーとして“陰のMVP”と言われたのが福間納。ドラフト1位で79年に
ロッテへ入団、すぐにヒジを故障し、活躍できないまま81年シーズン途中に阪神へ移籍してきた左腕だ。その後、懸垂でヒジを伸ばしながら鍛えたことで痛みがなくなり、中継ぎとしての調整法を身につけたことで開花。83年にはリーグ最多の69試合に登板して規定投球回にも到達、防御率2.62で最優秀防御率に。翌84年もリーグ最多の77試合に投げまくった。迎えた85年も58試合で8勝1セーブ。うち4試合で先発し、投球回も100イニングを超えた。
9月に“ダブル・ストッパー”崩壊も……
だが、
広島の猛追を受けていた9月、最大のピンチが訪れる。左のクローザーとして快進撃を支えてきた山本が4日にアキレス腱を断裂して離脱。そこから優勝までを支え続けたのは、世に言う“バックスクリーン3連発”のあった4月17日の巨人戦(甲子園)で初セーブをマークした右腕の
中西清起だった。ドラフト1位で84年に入団。迎えた2年目は山本との“ダブル・ストッパー”で機能し、終盤は山本の“担当”だった左打者をパームボールで牛耳り、最終的には11勝19セーブで最優秀救援投手に。日本シリーズも防御率0.00と完璧だった。
そんな投手陣を正捕手として支えたのが木戸克彦だ。PL学園高で3年生の夏に主将として甲子園で全国制覇、法大でも5季連続でベストナインに選ばれ、ドラフト1位で83年に入団。この85年に正捕手となったばかりだったが、リードやスローイングでベテランに負けない安定感を見せる。打っても6月15日の大洋戦(甲子園)で“バックスクリーン3連発”ならぬ“レフトスタンド3連発”となる3打席連続本塁打。
打線には勝負強さ抜群の
佐野仙好や小技にも長けた
北村照文や
平田勝男に
吉竹春樹、代打にもロッテの優勝、日本一に貢献した
弘田澄男や大洋で首位打者の経験もある
長崎啓二、そして
川藤幸三もいて、切れ目なし。木戸は主に八番で、打率こそ伸びなかったが、下位にいる木戸の存在で打線に迫力が増したのも大きかった。
写真=BBM