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プロ野球20世紀の男たち

松木謙治郎、景浦将、西村幸生&三輪八郎「燃える猛虎魂! 豪快無比の“タイガース”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

プロ野球の原点



 甲子園球場を所有していた大阪野球倶楽部が、大阪タイガースとして生まれ変わった1935年12月。東京で結成された巨人に続く2番目の球団として翌36年にはプロ野球の創設に参加し、初めて全7球団がそろってのリーグ戦となった秋の大会を制覇する。戦局が悪化の一途をたどっていた40年の秋に、英語の使用が禁止されたことで阪神となる。戦後、47年には大阪タイガースに戻り、阪神タイガースとなったのは61年のことだった。

 ライバルは一貫して巨人。いまも両雄の激突は“伝統の一戦”と言われ、意地を懸けた名勝負から拍子抜けするような迷勝負まで、さまざまなドラマを量産してきた。その原点は、プロ野球“元年”の36年にさかのぼる。秋のリーグ戦は、勝率では2位に大差をつけてトップだったが、勝ち点2.5は巨人と同じ。これで優勝決定戦となり、1勝2敗で苦杯を喫した。いわゆる“猛虎魂”が目覚めたのは、この瞬間だったのかもしれない。

 まさに“タイガース”だった。豪傑ぞろいだった草創期のプロ野球にあって、猛々しさは群を抜く。巨人には現在も語り継がれるエースの沢村栄治がいた。160キロは出ていたとも言われる快速球と、すさまじい落差の“懸河のドロップ”が武器。この沢村を打ち崩すべく、“猛虎魂”は燃えた。翌37年の春も巨人に優勝を許すと、沢村の快速球への対策としてマウンドの1メートル手前から投手に投げさせての打撃練習。これを指揮したのが、初代の主将でもある“猛虎魂の権化”松木謙治郎だった。抜群の打撃テクニックを誇る左のスラッガーだったが、ホンモノの猛虎のような男たちが従ったことからも推して知るべし。腕っぷしも随一だった。

 バットで沢村と名勝負を繰り広げたのは景浦将。バットの長さは90センチ近く、重さは1キロを超えており、ほかの選手は振り切るのにも苦労したが、それを目いっぱい長く持って、ヘッドを投手に向けてユラユラと倒しながらリズムを取り、大きなフォローから腰をねじ切るように振り抜いた。そして打球は弾丸ライナー。

「ワシは腰が強いから腰から上をケガすることはない。ほかの者はマネをしてはならん」(景浦)

 と言っていた。バットだけではない。投手としても登板して、36年の秋は無傷の6連勝に防御率0.79で最優秀防御率と超一流。37年の春は11勝、リーグ2位の防御率0.93に加え、47打点で打点王に輝いている。究極の“二刀流”。打者としてだけでなく、投手として沢村と投げ合うことでファンを沸かせた。2人の名勝負が“伝統の一戦”、そして始まったばかりのプロ野球を成功させて、その礎を築いたと言える。

37年に巨人を破って日本一に


阪神・西村幸生


 37年に入団してきたのが、主戦投手ではなく“酒仙投手”と呼ばれた右腕の西村幸生だ。すでに27歳。沢村の同郷だったが、7歳も上だった。それでも、落ち着いているどころか、荒っぽいエピソードも豊富で、書き始めたらキリがない。年下ながら投手として前を走る沢村に闘志を燃やし、37年の秋には15勝、防御率1.48で最多勝、最優秀防御率の投手2冠。変化球も多彩とは言えず、すさまじい球速でもなかったが、制球力と強心臓で圧倒した。そしてタイガースは秋のリーグ戦を制覇。優勝決定戦でも無傷の7連勝で日本一にも輝いている。

 40年8月3日、当時は日本の統治下にあった中国東北部の大連で、沢村に2度もノーヒットノーランを許していたタイガースで初めて、しかも、その巨人を相手にノーヒットノーランを達成したのが2年目の三輪八郎。タイガースの結成に参加して、のちに“ミスター・タイガース”と呼ばれた藤村富美男をして「速球だけで勝負できる数少ない左投手」と言わしめた、まるで沢村を鏡に映したような左腕だった。

 だが、44年、景浦はフィリピンで消息を絶ち、三輪も思い出の中国大陸で戦火に散った。45年には西村もフィリピンで戦死。沖縄で捕虜となって終戦を迎えた松木は、2リーグ分立で戦力がガタガタとなったタイガースに兼任監督として復帰し、自らが経済的に行き詰るまで私財をつぎこんで若き“猛虎”を支え続けた。

写真=BBM
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