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プロ野球20世紀の男たち

高木豊、加藤博一、屋鋪要「“スーパーカー・トリオ”の“スーパーカー・フォーメーション”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

開幕戦の1回表から


左から大洋・屋鋪要加藤博一高木豊


 どん底の大洋が迎えた1985年の開幕戦、4月13日の巨人戦(後楽園)。大洋のスターティング・ラインアップには、一番から三番まで、韋駄天がズラリと並んだ。一番の高木豊は前年、84年の盗塁王、二番の加藤博一はプロ16年目、長い下積みを経験した苦労人ながら、ひょうきんな性格は球界きってで、三番の屋鋪要はスピードが球界きって。就任1年目の近藤貞雄監督は、この3人を“スポーツカー・トリオ”と売り出し、のちに“スーパーカー・トリオ”として定着していくのだが、そんな3人は、シーズンが開幕した途端、いきなり躍動する。

 1回表、先頭の高木は倒れたが、加藤は内野安打、屋鋪は四球で出塁して、四番のレオンが打席に入ったときには一死一、三塁となっていた。そこで重盗。本塁へ突撃した加藤は山倉和博の好ブロックに阻まれたが、めったに見ることができないホームスチールは、このトリオが駆けずり回る舞台の幕が切って落とされた瞬間でもあった。

 ただ、この開幕戦はレオンの2本塁打、5打点もあって快勝したものの、6回表には高木も二盗に失敗し、盗塁がついたのは名バイプレーヤーの村岡耕一のみ。また当時は「球界7不思議」と揶揄する声もあった屋鋪の三番だが、試合を決めたのは屋鋪の2点三塁打だった。ただ、このとき生還したのも高木と加藤ではなく、トリオの足が勝利を呼び込んだわけではない。なんとも象徴的な開幕戦ではあった。

 しかし、その後は順調だった。先駆けとなった加藤は連続で15盗塁を成功させる快進撃。高木は打撃も安定し、それまでは足と守備の人というイメージだった屋鋪も、当初は新しい役割に迷いながらも、次第に秘められた勝負強さを発揮していくようになる。

 前年と比べてみると、“1号車”高木は56盗塁から42盗塁と、盗塁こそ減らしたものの、打率.300から打率.318、76得点から自己最多の105得点。“2号車”加藤は自己最多、リーグ最多の39犠打で二番打者の役割を果たしながらも、自己最多の48盗塁を決めた。“3号車”屋鋪は11盗塁から自己最多の58盗塁と激増、打っても4本塁打から15本塁打、29打点から78打点と自己最多を叩き出している。

 盗塁はリーグ2位から屋鋪、加藤、高木の順で並び、3人で148盗塁、チームでは110盗塁からリーグ最多の188盗塁に。大洋も最下位から4位へと浮上。Bクラスには違いないが、当時の大洋からすれば“快挙”だったと言える。

“活動期間”は1年半ながら


 当時としては広かった横浜スタジアムにあって、危なっかしさを抱えながらも、塁間を駆け回った韋駄天トリオ。3人ともスイッチヒッターの“経験者”でもある。この85年にスイッチだったのは屋鋪のみで、もともと左打者だった高木は長打を狙って83年に右打席にも入っていたこともあり、加藤は85年から左投手のときにも左打席に入るように。ただ、時折「気分で」(加藤)右打席にも入る“変則スイッチ”でもあった。87年に広島でも韋駄天スイッチヒッターが一番から三番まで並び、チームを引っ張る活躍を見せたことがあったが、“トリオ”と呼べるほどの秀逸な連係プレーとなると、大洋の“トリオ”に軍配が上がるだろう。

 高木が塁に出るも足が不調なときには、続く加藤は、あわよくばセーフティーという犠打、あるいはヒットエンドラン。高木が得点圏に進めば粘りに粘って適時打を放ち、自らが倒れたとしても、粘ったことで続く屋鋪が初球から打ちにいけるような状況も作った。

 こうしたプレーを支えていたのがトリオだけのサイン。「監督のサインより、自分らで動いて点が入ったときの喜びのほうが大きかったね」(加藤)という。だが、翌86年に絶好調だった加藤が故障。ファンに鮮烈な印象を与えたトリオは、その印象が色褪せないまま“解散”となる。加藤は90年オフに引退、93年オフには高木と屋鋪が自由契約となった。

 確かに、優勝につながる野球ではなかったのかもしれない。ただ、優勝が遠いチームであっても、ファンを楽しませることはできる。間違いなく、彼らの野球は、おもしろかった。

写真=BBM

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