プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 星野監督2年目の歓喜
中日のエースナンバー20を背負い、V9
巨人に牙をむき続けた
星野仙一が監督に就任したのは1986年のオフ。最初の仕事は、
ロッテで2年連続3度目の三冠王に輝きながらも、移籍を志願していた
落合博満の獲得だった。
迎えた87年は新人の
近藤真一が初登板ノーヒットノーランというプロ野球で初めての快挙を成し遂げる一幕もあったが、2位。そのオフのドラフト1位で入団したのが、長く主力を担い続ける立浪和義だった。その存在で遊撃の
宇野勝は二塁にコンバートされ、立浪は開幕戦から遊撃手として先発出場。のちに二塁打でプロ野球の頂点に立つことになるが、初安打も二塁打だった。
未完成だったが、主に二番打者として優勝に貢献して新人王に。このときのリードオフマンが
彦野利勝で、90年代に入ると立浪が一番、彦野は二番が多くなり、このコンビは彦野が91年にサヨナラ本塁打の後にアキレス腱を離脱する悲劇に見舞われるまで続いた。ちなみに、彦野の後釜として二番に入ったのは
種田仁。のちにガニ股の打撃フォームでインパクトを残すが、やはり未完成で、守っても二塁に入り、立浪が二塁に転向すると遊撃へ回って、立浪とは二遊間でもコンビを組み続けている。
90年代、一貫して司令塔を担った
中村武志のブレークはVイヤーの88年。82年MVPの
中尾孝義が外野に転向したことで定着、その後は投手の長所を引き出すリードで投手陣の信頼を集めていく。
絶対的クローザーとして88年にMVPとなった
郭源治については、すでに紹介した。先発の柱となったのが右腕の
小野和幸。
西武では7年間で15勝に終わっていたが、中日1年目から18勝で最多勝に輝いている。優勝を争う終盤、救世主となったのが山本昌広(山本昌)。50歳まで現役を続け、つい昨日まで現役だったような印象すらある左腕だが、当時はプロ5年目の23歳で、アメリカ留学から帰国して無傷の5連勝、90年代には最優秀防御率1度、最多勝2度と全盛期を迎えた。
その山本と競うようにポーカーフェースで投げ続け、93年に17勝で最多勝となったのが
今中慎二だ。ただ、長く現役を続けた山本とは対照的に故障が続き、Vイヤーの99年には5試合の登板にとどまっている。90年に新人ながら最優秀救援投手、新人王となり、現在は監督を務める
与田剛も故障に苦しんだ右腕。名前から“剛球投手”とも言われたが、その“剛球”は諸刃の剣でもあった。
99年は投打に充実で独走
88年のV戦士で、99年も第一線にいたのは、打線でも立浪、中村ら少数派。立浪は94年、巨人との最終戦同率優勝決定戦“10.8”での執念のヘッドスライディングで左肩を脱臼、その痛みが消えないままプレーを続けていた。
95年には長距離砲の山崎武司が台頭し、96年に39本塁打で初の本塁打王に。98年には投手から転向した
井上一樹が遅咲きの花を咲かせ、
阪神で捕手だった
関川浩一は中日で外野手に専念して移籍1年目からレギュラーに定着する。遊撃には種田の故障で堅守の
鳥越裕介らが入っていたが、迎えた99年に立浪と二遊間を組んだのが
福留孝介。メジャーを経て現在も阪神でプレーを続けるレジェンドの1年目だ。
一方の投手陣。98年に14勝を挙げて新人王となった右腕の
川上憲伸に刺激を受けたのが左腕の
野口茂樹だった。98年には防御率2.34で最優秀防御率、川上が右肩痛で失速した99年には無冠ながら19勝でMVPに輝いている。
リリーフ陣も盤石だった。クローザーの
宣銅烈、セットアッパーの
サムソン・リーは助っ人たちを紹介した際に触れたが、それだけではない。日大で骨折しながらもドラフト1位で92年に入団した
落合英二は98年に最優秀中継ぎ投手となり、99年もフル回転。そして、ついさっきまで現役だったような
岩瀬仁紀は、99年が1年目。セットアッパーとして優勝に貢献した。
だが、翌2000年は2位に終わると、2001年には4年ぶりBクラスとなる5位に転落し星野監督は辞任。中日のユニフォームを着た星野の雄姿は、20世紀とともに歴史となった。
写真=BBM