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プロ野球20世紀の男たち

篠塚和典、岡崎郁、吉村禎章、元木大介、緒方耕一&山倉和博、村田真一「90年代Gひと筋の好打者たち」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

80年代からのベテラン、90年代の新戦力



 プロ野球のテレビ中継、いや、実質的には巨人戦のテレビ中継が頂点を極めた1980年代。それまでも国民的スポーツの座を独占してきたようなプロ野球、そして巨人だったが、90年代に入ると、Jリーグの人気などもあり、ようやく競争にさらされることになった。

 巨人ではアンチも含めて注目を集めてきた江川卓や人気者の中畑清は80年代に引退、打のスターで“若大将”と呼ばれた原辰徳もベテランの域に入り始めていた。92年オフには“ミスター”長嶋茂雄監督が復帰。93年オフにはFA制度がスタートし、中日から落合博満ヤクルトから広沢克己西武から清原和博と、豊富な資金力を背景とした大型補強を繰り返した。

 故障にも苦しめられた原は95年オフに現役引退。同様に80年代の主軸で、2度の首位打者に輝いた篠塚利夫(和典)も、原よりも前にラストシーンを迎えている。もともと故障も多かったが、90年代に入ると持病の腰痛で規定打席に到達できず。それでも持ち前の巧打と堅守は健在だったが、94年オフ、恩師でもある長嶋監督にとっての初の日本一を見届けての引退だった。現役生活19年、巨人ひと筋。各チームの主力が巨人のユニフォームに袖を通し、数年で放出されていった巨人の90年代は、逆説的に、生え抜きの好打者たちが印象を残した時代でもあった。

 80年代は肋膜炎で出遅れながらも、まずは遊撃手として頭角を現し、89年に三塁、90年には故障に苦しむ篠塚に代わって二塁を守った岡崎郁も、若手時代は“篠塚2世”と言われた左打者。柔らかいバットさばきで篠塚を彷彿とさせたものだが、実際は巧打者というよりは勝負強きクラッチヒッターだった。一方で、天才的な打撃センスを誇った左打者が吉村禎章だ。88年の守備中に左ヒザじん帯を断裂する重傷を負うも、手術と懸命なリハビリを経て奇跡の復帰を果たすと、守備にこそ支障は残ったが、左の代打として記憶に残る活躍を続けた。

巨人・元木大介


 同じ左打者の駒田徳広がFA移籍、そして落合が加入して迎えた94年。岡崎が三塁へ戻り、二塁手として頭角を現したのが右打者の元木大介だ。巨人へのこだわりは筋金入りで、1年の浪人を経て91年に入団。卓越した野球センスと攻守の粘り強さから長嶋監督に“クセ者”と呼ばれ、94年は中日との史上初の最終戦同率決戦“10.8”にも二塁手として先発出場、97年には初めて出場100試合をクリアした。

 スイッチヒッターの“青い稲妻”松本匡史も80年代に姿を消したが、代わって90年代に登場したスイッチのスピードスターが緒方耕一。3年目の89年にプロ初本塁打をランニング本塁打で決めると、翌90年には33盗塁で盗塁王に。アキレス腱を痛めながらも、93年にも24盗塁で2度目の盗塁王となったが、その後は持病の腰痛が悪化。それでも94年の西武との日本シリーズ(西武)で満塁本塁打を放って、日本一に大きく貢献している。

新“先発三本柱”を支えた司令塔


巨人・村田真一


 一方、司令塔の補強は80年代から始まっていた。ただ、V9時代にも司令塔の森昌彦には数多くの“刺客”が送り込まれており、ある意味、これも巨人の伝統といえる。87年MVPの山倉和博は90年がラストイヤー。新たに司令塔となったのは村田真一だった。投手陣も槙原寛己斎藤雅樹桑田真澄ら右の新“先発三本柱”に、左腕の宮本和知らと世代交代も完了。92年は西武から移籍してきた大久保博元が強打で沸かせたが、すぐに正捕手の座を奪い返す。

 投手に気持ちよく投げさせる粘り強い我慢のリードが持ち味で、94年には槙原の完全試合を支え、“10.8”では槙原こそ炎上したが、続いた斎藤、桑田のリレーを好リード。この“三本柱”は、いずれも150勝を超えているが、その勝ち星に最も貢献したのが村田だった。

 岡崎は96年、吉村と緒方は98年にユニフォームを脱ぎ、村田は槙原、斎藤とともに21世紀に入った2001年に現役引退。その01年に2度目の規定打席到達を果たした元木は、その後は代打の切り札として05年までプレーを続けた。もちろん、いずれも巨人ひと筋だ。

写真=BBM
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