プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。 川崎の好打者は幕張でも健在
「テレビじゃ見れない川崎球場」
ロッテが、こんな自虐的なキャッチコピーを打ち出したのが1991年。4億6500万円という巨額の費用を投じた宣伝だったが、ほぼ回収できずに終わった。その7月31日に、ロッテは翌92年からの千葉マリンスタジアムへの移転を表明。数々の名勝負が繰り広げられてきた“川崎劇場”は、テレビじゃなくても見られなくなってしまった。オフには
金田正一監督も退任し、チームもオリオンズからマリーンズに。ひとつの時代が終わった。ただ、すぐに新しい時代が始まるわけでもない。“幕張劇場”が定着するのには、数年の時間を要した。
オリオンズ最後の栄光は金田監督1期目の74年。以来、80年から2年連続で前期を制したこともあったが、80年代の後半には低迷かつ不人気チームの代表格に。三冠王3度の
落合博満は86年オフに移籍を志願して
中日へ、88年には近鉄の優勝を阻んで“悪役”となるなど、何もかもが空回り。冒頭の宣伝が機能しなかったのも、ある意味では象徴的だったと言える。新天地の千葉でも、95年には
広岡達朗をGMに、メジャーのレンジャーズで指揮を執ったバレンタインを監督に据えて2位へと躍進したものの、両者の衝突で空中分解。空回りも続いたが、これは新たなドラマへの序章でもあった。
かつての“川崎劇場”は、客席では閑古鳥が鳴いていたことも多かったが、グラウンドには活気が残り、特に打線では西村徳文が86年から4年連続で盗塁王、90年には首位打者に。川崎ラストイヤーの91年には、
堀幸一が“日本で一番、給料の安い四番打者”と騒がれ、最終戦で規定打席に到達した
平井光親が首位打者に。彼らは千葉でも健在で、新天地でも打線を引っ張っていく。
この連載では甲子園のヒーローとして紹介した
愛甲猛は野手として開花して、千葉1年目の92年までパ・リーグ記録となる535試合連続フルイニング出場を続けた。ただ、ロッテは川崎と千葉にまたがって2年連続で最下位。それでも、92年には“幕張のファンタジスタ”
初芝清がプロ4年目にして三塁のレギュラーに定着、95年には80打点で打点王となってチームの浮上に貢献する。
その95年には2年目の
諸積兼司が果敢なダイビングキャッチだけでなく、雨天中止の際には水たまりにもダイブしてファンを沸かせた。1年目の97年から正遊撃手の座を確保して全試合に出場、新人記録の56盗塁で新人王に選ばれたのが
小坂誠だ。翌98年には43盗塁、2000年に33盗塁で、2度の盗塁王。この頃、台頭してきたのが
サブロー、そして2019年いっぱいで現役を引退した
福浦和也だった。
プロ野球新記録の18連敗がエポックに
一方の投手陣で、川崎ラストイヤーのエースといえるのが小宮山悟だ。プロ2年目で迎えた川崎ラストイヤーから千葉にかけて4年連続で開幕投手に。93年には開幕から6試合連続で完投勝利というプロ野球新記録もあったが、低迷するロッテにあって、94年まで5年連続で負け越し。ロッテが2位につけた翌95年は11勝で初の勝ち越し。97年には防御率2.49で最優秀防御率に輝いている。
千葉1年目の92年には新人で左腕の
河本育之がリリーバーとして安定。
伊良部秀輝がヤンキースへ移籍した一方、97年に初の2ケタ12勝でエースに名乗りを上げたのが“ジョニー”
黒木知宏だった。
だが、翌98年にロッテは悪夢の18連敗。17連敗となった7月7日の
オリックス戦(GS神戸)で、2点リードの9回裏に同点本塁打を浴びた黒木は、マウンドに崩れ落ちる。黒木を叱咤する小宮山。これが、新しい時代の、本当の始まりでもあった。オフに退任した
近藤昭仁監督が「もっと強いチームでやりたかった」と言って反感を買ったが、この失言も新しいドラマの絶妙な起爆剤となったようにも見える。
21世紀のドラマについては、ここでは触れない。忘れたころに味なことをするのがロッテ。次のドラマは、どんな筋書きになるのだろうか。
写真=BBM