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プロ野球20世紀の男たち

豊田泰光「西鉄“野武士軍団の象徴”の辛口回顧」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「このタイトルは私の恥」


西鉄・豊田泰光


 現在はソフトバンクが黄金時代を謳歌している九州は福岡に、さかのぼること半世紀あまりの昔、黄金時代を築いた球団があった。西鉄ライオンズ。2019年にリーグ連覇を果たした西武の源流だ。巨人を追われるように去り、「われ、いつの日か中原にて覇を唱えん」と誓った三原脩監督に率いられ、1954年に初のリーグ優勝、56年からは3年連続で日本一にも。荒々しいプレーで荒々しい地元ファンを沸かせた西鉄ナインは“野武士軍団”と呼ばれ、その象徴的な選手が豊田泰光だった。

 水戸商高では夏の甲子園で選手宣誓。西鉄1年目の53年から遊撃のレギュラーとなったが、序盤は守備がボロボロで、三原監督は我慢して使い続けた。

「客席から一升瓶が飛んで来たり、ツバを吐きかけられたり。いつか見返してやると思った」

 と、打撃で燃える。“流線型打線”の攻撃的な二番打者として新人の新記録となる27本塁打を放って新人王に。その入団で遊撃から一塁へ移った河野昭修の助言に加え、「なんでも捕ってやる」という一言もあって、シーズン途中から守備も向上。以降、不動の遊撃手として西鉄を黄金時代に引っ張っていくことになる。

 連覇が始まった56年には主砲の中西太と首位打者を争い、打率.3251で戴冠。三冠王も懸かっていた中西は打率.3246と僅差だったが、最終戦は両雄の欠場によるタイトル確定で、

「このタイトルは私の恥、と言ってしまってはファンに申し訳ないので、その手前でグッとこらえますが、正々堂々と勝負させてほしかった」

 と悔しさをにじませる。シーズンのMVPは中西に譲ったが、初の巨人との日本シリーズでは打率.458と打ちまくってMVPに。

「この56年、私はバッティングで、ひとつの壁を破りました。ようやく右打ちがモノになり、引っ張れば長打になる。自己最多の172安打を放ち、ついでに31盗塁。本塁打は12本でしたが、一番バランスの取れた打撃がやれたシーズンだったかもしれません」

 と胸を張る。ここから西鉄は3年連続で巨人を破り、頂点に立ち続けるのだが、

「とにかく球団がケチ一点張り。列車での移動は三等車、通路でゴロ寝なんて当たり前でした。しかし、チームは徐々に変わりつつありました。我々は、みんな若かった。“無”の選手たちが三原さんの野球をスポンジが水を吸い込むように吸収した。その中に大下(弘)さんや関口(清治)さんがいた。これは偶然という名の、天の配剤でした。でも、我々が戦力になったのは、みんな必死になって野球という仕事に食らいついていったからです。中西さんでも、仰木(彬)でも稲尾(和久)でも『やらなければ自分も家族も食えない』が大前提としてありました」

「先は見えていたね」


 62年には兼任監督となった中西とともに助監督を兼務。エースの稲尾も投手コーチを兼ねて、“青年内閣”と騒がれたが、

「カネなし、人なしの手詰まり状態から(球団が)泥縄式に思いついた最悪の人事だった。“青年内閣”なんて、要するにカネがかからんからデッチあげただけでね。有名監督を呼べばカネがかかる。内部昇格なら契約金もいらんし、ちょっと肩書料を出せば済む。先は見えていたね」

 と苦虫を噛みつぶす。オフに国鉄へ移籍。ちなみに、このトレードマネーを軍資金に西鉄はロイ、バーマ、ウイルソンら“三銃士”を獲得、その活躍で翌63年に最後の優勝を果たしている。

 移籍した国鉄でも打線の主軸を担い、チームがサンケイとなった65年からはヒジの故障で出場を減らしたものの、68年に2試合連続サヨナラ本塁打を放つなど勝負強さは健在。そして翌69年オフ、現役を引退した。

 1年目からヤジられても胸を張った。相手が先輩でも平然と噛みつくなど気の強さは天下一品。攻撃的で荒々しいプレーが持ち味だったが、そこには独特の艶と知性がにじみ出ていた。打席ではベースに覆いかぶさるように構え、そこから投手をにらみつける。そこからのスイングは柔らかかった。西鉄では中西や稲尾よりも人気を集め、評論家としても毒舌で鳴らしたが、知的で鋭い評論で幅広いファンを獲得している。

写真=BBM
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