週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀の男たち

木俣達彦&村田兆治「“マサカリ打法”vs.“マサカリ投法”」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

エポックは71年



 セ・リーグの捕手として初めて30本塁打を超えるなど強打で沸かせた中日の木俣達彦。その豪快な打法が“マサカリ打法”と呼ばれるようになったのは1971年のことだった。ほぼ時を同じくして、一方のパ・リーグで、右腕の試行錯誤が始まる。ロッテ村田兆治。やはり豪快な投法で、当初は「村田のタコ踊り」などと揶揄されたが、信念を曲げず、フォームの完成に向けてトレーニングを重ねて、結果も出していく。その投法は、やがて“マサカリ投法”と呼ばれるようになっていった。

 木俣は64年に中日へ。1年目から一軍出場も、プロのスピードとパワーを見せつけられ、当時はタブーだったウエート・トレーニングに取り組む。ほとんど専用の器具などなかった時代。重いバットを振り込み、腕立て伏せを繰り返した。あこがれだった巨人王貞治を真似て一本足打法にも挑戦し、右と左は違うが、王の連続写真を裏焼きして研究。持ち前のパワーとリストの強さもあり、69年に33本塁打を放った。

 翌70年にも30本塁打。一本足で頭上に掲げたバットを振り下ろすのが、その風貌もあって、童話の金太郎が担いだマサカリを振り下ろす姿のように見えたことが、“マサカリ打法”の由来だという。ただ、外へ逃げていく変化球は苦手で、なかなか打率3割には届かなかった。

ロッテ・村田兆治


 一方、のちの80年代に、やはりタブーとされていた右ヒジ手術を経て復活した姿も印象に残る村田。ドラフト1位で68年に東京へ入団も、球速はあったが、まともに変化球を投げられず、とにかく制球難だった。チームがロッテとなった翌69年にプロ初勝利も、6勝にとどまる。その翌70年にロッテはリーグ優勝を飾ったが、わずか5勝。植村義信コーチに上体が突っ込むクセを指摘されたことでフォーム改造に取り組む。

 ほぼ同時期に習得したフォークには阪急の米田哲也ら先駆者がいたが、目指すフォームは、どこにも好例がない。周囲の雑音を振り払い、毎晩ひたすらシャドーピッチング。上体の突っ込みを抑えるべく、右足だけで立つトレーニングも繰り返した。信じるのは己の信念のみ。そして71年に初の2ケタ12勝を挙げる。

 だが、その後は失速。転機は73年、国鉄、巨人で通算400勝を残した金田正一監督の就任だった。徹底的に走らされ、下半身を強化したことがフォームに強靭な粘りを与える。そして迎えた74年、右足に全体重を乗せてタメを作り、そこから右肩を落とし、尻を打者のほうへ突き出して、右手に握った球が地面スレスレになるほど、右足が“く”の字になるまで沈み込んで、豪快に投げ抜くフォームが完成した。最終的には2度目の2ケタ12勝を挙げて、ロッテをリーグ優勝に導いていく。

頂上決戦を呼んだ投打の“マサカリ”


 その74年には木俣も転機を迎えた。宮本武蔵の本を読み、その呼吸法を取り入れると、「息を吸って、ハッハッと吐いてバットを振る」(木俣)打法にマイナーチェンジ。これで安定感が急上昇する。王と首位打者を争って、タイトルには届かなかったが、打率.322でリーグ優勝に貢献した。ちなみに、村田も武蔵の『五輪書』を愛読していたことでも知られている。

 そして、投打の“マサカリ”は日本シリーズで激突した。村田の“マサカリ”は猛威を振るう。第1戦(中日)ではサヨナラ打を浴びて敗戦投手となるも、第2戦(中日)と第4戦(後楽園)で好投。そして王手をかけて迎えた第6戦(中日)でシリーズ初先発、延長10回を2失点で完投して胴上げ投手に。中日の打者をバッサバッサと打ち取る姿から、“マサカリ投法”の異名も定着していく。

 一方、木俣の“マサカリ”は4安打2打点にとどまったが、村田との対戦成績は5打数2安打で打率.400。第6戦の3回裏には同点の犠飛で村田を苦しめている。

 村田は翌75年から2年連続で最優秀防御率に輝くなど、ロッテのエースに成長していく。日本でのアイシングの元祖としても知られる木俣は82年のリーグ優勝を見届けて現役を引退。“昭和生まれの明治男”村田も右ヒジ手術から復活したパイオニア的な存在となり、時代が平成となった90年までプレーを続けている。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング