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プロ野球20世紀の男たち

高木守道、谷木恭平、井上弘昭……島谷金二、広瀬宰 with 板東英二 feat. 中利夫「名曲? “初代”『燃えよ! ドラゴンズ』と、その前夜」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

Vイヤー74年バージョンを徹底検証?



 巨人のV10を阻み、20年ぶりにリーグ優勝を果たした1974年の中日。巨人を追われるように去り、中日で現役を終えた与那嶺監督が72年に就任し、ナインの巨人コンプレックスを払拭、就任3年目の快挙だった。同時に、中日ファンに歌い継がれる『燃えよ! ドラゴンズ』が誕生した記念すべきシーズンだ。数え歌のように打順を歌い進めていく構成のため、インパクトは抜群ながら、常に更新を余儀なくされる宿命も背負った名曲(?)でもある。

 まず「塁に出る」のが、もちろんリードオフマンの高木守道。60年に入団、初打席本塁打でデビューすると、以降3度の盗塁王に。だが、一番打者としては四球が少なく、むしろ長打を秘めた打撃が持ち味。ただ、打撃や走塁よりも、絶品のグラブさばきと芸術的なバックトス、グラブトスで、その二塁守備は史上最高とも評される。74年には失策によって敗れた試合があり、激怒したファンにバスを取り囲まれたとき、普段は温厚な与那嶺監督が「何度もモリミチで勝ってきたんだ!」と怒鳴り返したこともあった。

 続いて、二番で「送りバント」をするのが2年目の谷木恭平。6月からレギュラーに定着。自身も「バントばかりしてた気がする」と振り返るが、二番は自身の最多ながら29試合のみで、実際には企図数は7、成功は6のみ。実際にはセーフティーやバスター、バントの構えで牽制するなど、しぶとい打撃でつなぎに徹し、2度のサヨナラ打など、勝負強さも魅力だった。

中日・井上弘昭


 ともあれ、歌の世界では一死二塁の場面だ。ここで、すかさず「タイムリー」を放つのが井上弘昭。やはり前年の73年に広島から移籍してきたスラッガーで、Vイヤーの翌75年には広島でチームメートだった山本浩二と首位打者を争っている。84年オフに日本ハムで引退して西武のコーチとなったが、右の代打として現役に復帰して1年だけプレーした変わり種でもある。

 そこから「ホームラン」を打つマーチン、「クリーンヒット」の谷沢健一、「流し打ち」を見せる木俣達彦は割愛。歌詞は歌い進めていくにつれ、うろ覚えになっていくものだが、だからではない。すでに紹介しているためだ。

 七番で「ヒットエンドラン」を成功させる島谷金二は、74年に多かったのは二番。ただ、真価を発揮したのは77年に阪急へ移籍してからで、いきなり首位打者に肉薄、79年にもチームメートの加藤英司と打点王を争って、黄金時代に貢献している。そこから「スクイズバント」を決める広瀬宰は高木と鉄壁の二遊間を形成した名遊撃手だが、ロッテとの日本シリーズでは1本塁打、打率.357とバットでも活躍した。

名曲が生まれるまで


 投手として歌われている星野仙一、鈴木孝政の紹介している。この74年、20勝を挙げて最多勝に輝いたのが、星野と鈴木の間で歌われている松本幸行だ。ちぎっては投げの投球で“早投げの松ちゃん”と言われ、時には超スローボールで打者を幻惑した左腕。この3人に、11勝を挙げたサブマリンの三沢淳、72年に20勝を挙げて島谷らととともに阪急へ移籍して復活した稲葉光雄、優勝を見届けて現役を引退したベテランの水谷寿伸が続いている。

 歌っているのはタレント……いや、長く水谷と苦楽を共にし、60年代の中日でリリーフエースの先駆者として活躍した板東英二だ。この“名曲”の歴代を追いかけていると際限がなくなるので、ここでは板東や水谷が戦った、優勝と優勝の“隙間の時代”、60年代から73年までの打線にさかのぼってみたい。

“涙の日本一”から世代交代も進み、もし当時、この曲が歌われたとしたら、真っ先に歌われるのは中利夫(三夫、暁生)で間違いない。攻守走そろった不動のリードオフマンで、60年に盗塁王、67年には首位打者。高木は二番が多く、すでに紹介した江藤慎一や長距離砲の森徹がクリーンアップにいた時代だ。優勝の2年前、72年に眼病のため現役を引退したが、もし現役を続けていたら、おそらくは歌詞の内容も変わっていただろう。優勝を知らない竜の功労者だ。

写真=BBM
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