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平成助っ人賛歌

どん底から復活。星野中日11年ぶりVに貢献した韓国の至宝・宣銅烈の野球人生/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

韓国史上最高の投手



 1996年2月27日、ゲームボーイ用ソフト『ポケットモンスター 赤・緑』が発売された。

 当時、据置型ゲーム機のプレステやセガサターンが定着し、同年6月にはNINTENDO64も発売とゲームボーイはすでに一昔前のハードになりかけていたが、ポケモンのヒットにより息を吹き返す。雑誌『コンティニュー』Vol.9掲載の開発者・田尻智インタビューでは、「もう打ち合わせをしていてもサターンをどうやって売るかって話で盛り上がってて。だから『ポケモン』製作が一番佳境だったとき、世間的には時代遅れって言われたわけ。「いまゲームボーイのソフトを作ってる」って言うと、「なんで」って(笑)。「もう終わりでしょ?」みたいなね」と95年から96年ごろのゲーム業界を振り返っている。あのヤンキースの田中将大も少年時代にポケモン緑で遊び、のちに『ポケットモンスター サン・ムーン』のCM出演も果たしたが、88年11月生まれのマー君は初代発売時は小学校低学年のまさにポケモン直撃世代だ。

 さて、そのころのプロ野球で話題を集めたのはひとりの韓国人右腕・宣銅烈(ソン・ドンヨル)である。ヘッテ・タイガースの2年目には24勝6敗、防御率0.99と圧巻の成績を残し、そこから7年連続含む8度の最優秀防御率、最多勝4度と名実ともに韓国史上最高の投手と称される国宝級の存在だった。

 90年代に「日韓プロ野球スーパーゲーム」という両国の選抜チームが戦う日米野球的な興行があったが、初開催の様子を報じる『週刊ベースボール』91年12月2日号には「キミはソン・ドンヨルを見たか!?」なんて派手な特集記事が掲載されている。練習中に右足首を痛め3イニングの限定登板だったが、5連続三振含む2安打無失点投球を披露。空振り三振を喫した日本の四番・落合博満も、「(150キロ近い)ストレートには評判通りの威力があるし、スライダーは実に素晴らしい。韓国No.1という評判はダテじゃない。すごい投手を見たよ」と脱帽した。

 当然、NPB関係者も「日本でも15勝はできる」と怪物投手の獲得を目論み、その後もたびたび中日やダイエーが接触を図るが、ヘッテ側は円高に乗じた札束攻勢は許さないと自国の英雄の流出に対し拒絶反応を示す。92年にソンは右肩を故障しわずか11試合の登板に終わるも、30歳で迎えた93年にクローザー転向すると、49試合で10勝3敗31セーブ、防御率0.78と復活。ソン本人は「できることなら中日か巨人で投げてみたい」と新たなチャレンジに前向きだったが、球団オーナーが会見を開き一方的に残留発表したことに不信感を募らせ、95年オフにはついにソンが「日本でやらせてくれないならユニフォームを脱ぐ」宣言。マスコミやファンが11年間もヘッテに貢献したのだから夢をかなえてやればいいと後押しして、2〜3年後に球団に戻るという条件付きで日本移籍が認められる。

苦しんだ中日1年目


巨人との獲得合戦の末、星野監督(右)率いる中日に入団した


 通算146勝40敗132S、防御率1.20という生きる伝説に対し、日韓プロ野球スーパーゲームを主催していたのが中日新聞ということもあり、KBOにいち早く身分照会をしたのは星野仙一が監督復帰する中日ドラゴンズ。巨人の猛追を振り切り、背番号は中日のエースナンバー20番、トレードマネー3億円、年俸1億5000万円の2年契約という破格の好条件で33歳のソン・ドンヨルは“韓国の野茂”と大きな注目を集めての来日となった。

 なお、同時期にダイエーがLGツインズのドラフト指名した大学生投手の獲得を狙いひと騒動起こしたり、巨人がチョ・ソンミンと8年の大型契約を結ぶなどNPBとKBOの関係性も変わり目だった。中日の春季キャンプには母国から多くのマスコミが詰めかけ、ソンがノックの打球処理の際にグラブさばきをコーチから注意されただけで韓国スポーツ紙1面を飾るフィーバーぶり。しかし、ヘッテ時代より早いペースの日本のキャンプに戸惑い、毎日異常な数の報道陣に追いかけられソンのストレスも溜まっていく。

「野茂はフォークボールで大リーグに斬り込んだ。ソン・ドンヨルは高速スライダーで頑張らねばならないが、やはり胸元を狙わないと……」なんてKBO関係者は心配したが、キャンプ中にソンの母親が亡くなり緊急帰国。調整に遅れが出ると、開幕しても調子は上がらず、4月20日には右ヒジ痛で登録抹消へ。5月9日には腰痛を発症し昇格見送り。5月29日に戦列復帰するもリリーフで結果が出ず、気分転換に先発起用されたら2回6安打4失点と炎上してしまう。

 ちなみに5月31日には2002年サッカーワールドカップの日韓共催が発表されたが、6月11日のヤクルト戦は0対5とリードされた場面で、ソンは敗戦処理のような形でマウンドに上がり、週刊誌には「中日が韓国の至宝を潰せばW杯共催の詳細を詰める今後の両国の話し合いに影響する」なんてなんだかよく分からないゴシップ記事も踊った。

 サッカー界をも巻き込み96年のスポーツ界を賑わせたソン狂騒曲。結局、移籍1年目は38試合5勝1敗3S、防御率5.50の成績に終わり、2年契約の2年目を迎えるにあたりソンはオフに身体を鍛え直し、ナインに溶け込むため日本語の習得に燃えた。もうプライドもクソもない。このままでは自分のせいでKBOはこんなもんかと思われてしまう……。スローペースの調整をやめ、2年目は苦手な走り込みもこなしキャンプイン直後からブルペン入りする日本式に合わせた。

引退を決意も翻意して……


99年のリーグ優勝に大いに貢献した[左からソン、リー、ゴメス]


 いつの時代もどん底まで落ちて開き直った中年男は強い。もう失うものは何もないからだ。目指すべき目標がクリアになる。さらにタイミング良く97年にはナゴヤドームが開場。ソン本人も週べ97年4月7日号のインタビューで「これまでの狭いナゴヤ球場では、やはり一発が怖かったし、インサイド高めに思いきり投げ込めなかった。今度のドームは広いから、インコースに思いっきりいける」と新球場に手応えを口にしていたが、その言葉どおりに前年とは別人のような快投を披露する。

 7月10日に監督推薦でオールスター初出場が決まった時点で、1勝0敗22S。25試合に投げて救援失敗はなし。この勢いはシーズンを通して持続し、同年は打者232人と対戦して被本塁打0。最下位に沈むチームにおいて43試合1勝1敗38S、防御率1.20で佐々木主浩(横浜)と並び最多セーブのタイトルを獲得する。

 98年も3勝0敗29S、防御率1.48の素晴らしい数字を残し、ソンの活躍により道が切り開かれ中日に“韓国のイチロー”ことイ・ジョンボム、ロン毛サウスポーのサムソン・リーと韓国三銃士がそろうが、ソンは細かい日本野球に苦しむ後輩のサムソンに「今までのやり方ではダメだ」とアドバイスを送り続けたという。

 36歳で迎えた99年は6月に3連続救援失敗で一度は引退を決意するが、星野監督に「このまま国に帰っていいのか」と説得され、山田久志投手コーチは「一度野球を離れて、家族とゆっくり過ごせ。野球がやりたくなったらいつでも戻ってこい」と無期限の休養を与えた。それだけ首脳陣は若い投手が多いベルペンの精神的支柱として、ソンの存在を高く評価していたのである。再びクローザーとして戻り28セーブを挙げ、チーム11年ぶりのリーグVの胴上げ投手はもちろん背番号20だ。コーチ兼任での残留要請もあったが、これを固辞して99年限りで引退。NPB4年間で10勝4敗98セーブ。1年目の失敗を糧に2年目以降は韓国の至宝にふさわしい活躍を見せた。

 プロ野球のひとつの物語の終わりは、同時に新しいストーリーの始まりだ。ソンの現役最終年、その背中を見ながら65試合に投げまくった新人リリーバーが岩瀬仁紀である。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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