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プロ野球20世紀の男たち

権藤博「『権藤、権藤、雨、権藤』の夢心地」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

「まるで夢でも見ていたようだ」



 自由かつ余裕をもって物事を達成するよりも、自らの時間を刻まれ、拘束され、多忙な中で達成したときのほうが、同じ結果であれ、あるいは後者の結果が芳しくなかったとしても、人は充実感を得やすいものなのだとか。もちろん錯覚だろう。ただ、こうした錯覚をエネルギーに変換していかなければ、持ちこたえられないこともある。1961年、中日1年目の権藤博は、

「命がけの1年。もう1人、別の自分がいた」

 と、のちに振り返っている。いわゆる「ゾーンに入った」のかもしれない。だが、どちらかといえば、疲れ果てた体から心が切り離されることで安らぎを獲得し、自らの体を俯瞰する“幽体離脱”のような状態が「もう1人の自分」という表現につながったようにも思える。69試合登板、無四球8を含む32完投、12完封、35勝、投球回429イニング1/3、被安打321、310奪三振、そして防御率1.70は、いずれもリーグトップ。新人王、ベストナイン、沢村賞にも輝いた。そんなシーズンを終えたオフには、

「まるで夢でも見ていたようだ。偉そうに言えば、なすべきことをし尽くした満足感が体中に染み渡り、我がこと終われり、というところだ」と、当時の週刊ベースボールに寄稿している。

 シーズン途中からは肩痛に苦しめられたが、肩やヒジのアイシングなど、もってのほかであり、温めろ、と言われていた当時。ダブルヘッダー第1試合で完投すると、温水シャワーをかけ続けてスタンバイ、第2試合に救援登板したこともあった。そんな若者の姿を危惧したのがライバルの投手たち。国鉄の金田正一からは「このままじゃ、つぶれるぞ」と忠告され、巨人堀本律雄は「中日には権藤しか投手はおらんのか。権藤、雨、旅行日、権藤、雨、権藤や」と、つぶやいた。だが若者は、こうも書いている。

「『連投を命じるかもしれん』と(濃人貴実)監督さんから言われたときはうれしかった。なんにしても、今シーズンの好成績は嬉しい。だがそれも、今は遠い昔のようだ」

 昔から巨人のファンで、その巨人でプロのキャリアをスタートさせる可能性もあった。だが、中日のコーチだった濃人に「好きな巨人を一緒に倒してみないか。あの強力打線を相手に投げて勝ちたいと思わないか」と言われて、若い血が騒ぐ。中日では杉下茂の背番号20を継承。迎えた1年目の61年は大洋の連覇か巨人の王座奪還が注目されたセ・リーグにあって、中日の優勝への切り札とされ、それを意気に思って投げまくった。制球力、快速球、そしてブレーキの効いたカーブ。どれも超一流だった。翌62年にも30勝を挙げて、2年連続で最多勝。

「肩痛でも休むと投げられる。それに打者を目の前にするとムキになって投げてしまうんです」

 だが、「夢」は2年で終わった。

「選手を褒めてください」


横浜監督時代の権藤博


 肩痛は悪化の一途。守備と打撃も一級品だったことで、65年には内野手に。68年には投手に復帰したが、69年いっぱいで現役を引退。投手としての実働は5年にとどまったが、この苦節を糧とする。フロリダ教育リーグの投手コーチを経て、中日に二軍の投手コーチとして復帰して指導者の道を歩み始めると、近鉄、ダイエーでも指導。ただ、たびたび監督と衝突した。

「監督ではなく、選手を向いて仕事をすることを考えました。最後に決めるのは監督。だけど自分の意見は、しっかり伝えます」

 横浜のバッテリーコーチに就任したのが97年。そして翌98年、監督に。それ以前も、その後も、誰にも似ていないユニークな采配を振るう。選手に「監督」ではなく「権藤さん」と呼ばせたのは象徴的で、野手に関しては完全に自由放任。自主性に任せた一方で、

「気持ちの中では80パーセント投手コーチ」

 と、“大魔神”佐々木主浩につなぐ投手陣を構築する。唯一、言い続けたのは、

「やられたら、やり返せ!」

 失敗した選手には必ず、もう1度チャンスを与えた。横浜は38年ぶりリーグ優勝、そして日本一に。お立ち台に上がることも多かったが、何を訊かれても、こう答え続けた。

「選手を褒めてやってください」

写真=BBM
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