週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀の男たち

中島治康、白石敏男、呉波&吉原正喜「巨人の好漢たちが築いたプロ野球の礎」/プロ野球20世紀の男たち

 

プロ野球が産声を上げ、当初は“職業野球”と蔑まれながらも、やがて人気スポーツとして不動の地位を獲得した20世紀。躍動した男たちの姿を通して、その軌跡を振り返る。

班長、逆シングル、人間機関車……



 1936年に全7球団で幕が開けたプロ野球。最初のリーグ戦には第2次アメリカ遠征のため参加できなかったが、巨人の歴史は、それよりも古い。34年12月26日に発足した大日本東京野球倶楽部が前身で、契約の3人目となったのが中島治康だった。第1次アメリカ遠征を控え、参加の動機は「アメリカ行きにつられてね」(中島)だったが、遠征への出発を前に応召。ふたたびチームに合流すると、後輩の面倒見がいい親分肌もあって“班長”の愛称が定着する。巨人が公式戦に加わったのは36年の夏。“班長”は初代の背番号3として、「ストライクゾーンは自分の決めるもの」(中島)という猛打の四番打者、強肩攻守の外野手として躍動した。

 36年に27歳を迎えた中島の一方で、広陵中を中退して第2次アメリカ遠征に参加したのが18歳の白石敏男。そこで三塁手の水原茂に内野守備を徹底的に叩き込まれ、さらには夏の炎天下、群馬県の茂林寺で行われた合宿で藤本定義監督の猛ノックを受ける。伝説となっている茂林寺の合宿だった。ある日、フラフラになるまでノックを受けた後、打撃練習で頭部に死球を受け、それでも立ち上がり、「はよ投げんか、ワシは大丈夫じゃ!」と叫んだものの、昏倒。これで、妙な特権意識を持ち、合宿でも外野でダラダラしているだけだった投手たちの目の色が変わったという。

 当時、打球は両手で捕るのが絶対で、シングル、それも逆シングルでの捕球は誰もやらなかったが、この合宿で遊撃の定位置をつかんだ若者は、無意識のうちに、そのタイミングもつかんでいた。初めて試合で見せたのが39年のフィリピン遠征だったが、その後は逆シングルがトレードマークとなっていく。

 37年からは春と秋の2季制となり、中島は春に本塁打王、秋には打点王に。その37年から戦列に加わり、すぐに抜群の身体能力で外野の定位置をつかんだのが、台湾に生まれ、嘉義農林で甲子園にも4度の出場を果たした“人間機関車”呉波(昌征)。そして翌38年、“打撃の神様”川上哲治とともに熊本工から加わり、すぐに正捕手となったのが吉原正喜だった。当時の川上は吉原の“ついで”だったという。

 その38年は中島が春と秋の2季連続で首位打者になっているが、秋は終盤に急失速。野球連盟が終幕を盛り上げるため、あちこちに中島のポスターを張り出し、これに照れまくったためだという。それでも本塁打王、打点王にもなり、プロ野球で初めての三冠王に。ただ、戦後の65年に南海の野村克也が三冠王に近づいた際に“初代”と認定されたもの。ポスターは騒がれたが、三冠王は騒がれなかった時代だった。

戦火に消えた吉原も


左から巨人・須田博(スタルヒン)、呉波、白石敏男


 シャイなら呉も負けていない。写真撮影が苦手で、残っている写真では渋い表情ばかりだが、ふだんは気さくで、背番号23を好んで「足して5(呉)でしょ」など、ジョークも好きだった。打球を追ってコンクリートに頭から激突、それでもプレーを続けたという吉原も、ジョークのセンスでは呉をしのぐ。

 41年の開幕前、激励会の挨拶で「昨年までキャッチャーをやっていた吉原正喜です。今年から捕手をやらせてもらいます」と言って、爆笑を誘った。だが、すぐに場内は静まり返ったという。戦局の悪化で球界からカタカナを追放しようというシーズン。若き好漢たちは、時代の暗闇に覆われていった。吉原はオフに応召。そして戦火に消えた。

 帰化していた呉も、台湾へ帰るつもりで退団。その帰路、なかなか便が取れなかった大阪で阪神に誘われて移籍となる。プロ野球が休止となると、甲子園球場の外野で芋畑を作る農業指導員となり、終戦。戦後は“ダイナマイト打線”のリードオフマンとして活躍を続けた。43年に兼任監督となった中島は兵役にいたが、46年に復帰。2リーグ分立で50年に創設された大洋でも兼任監督を務めた。このとき白石も地元に誕生した広島へ。資金難に苦しむ市民球団で金策にも走り回った。

 一方、吉原の背番号27は、のちにV9を支える森昌彦が継承。それは巨人にとどまらず、現在に至るまで多くの捕手たちが背負うナンバーとなっている。

写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング